雑草というものはない
「雑草というものはない。どんな植物でも皆名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。
人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない。注意するように」と話したという。
こんな話を聞いていましたが、先日知人がブログに載せておられて改めて拝読したのでした。
昭和天皇のよく知られた逸話であります。
ちょうど弘法大師の『般若心経秘鍵』を調べていると、
「医王の目には途(みち)に触れて皆薬なり。
解宝(げほう)の人は礦石(こうしゃく)を宝と見る」
という言葉に出逢いました。
『般若心経秘鍵』は難しい書物なので、松長有慶先生の『訳註 般若心経秘鍵』(春秋社)を参考にさせてもらいました。
松長先生は、このところを、
「たとえば道に生えている草を見て、何も知らない人は雑草だと見過ごしてしまう。
ところが医学、薬学に通じた人は、同じ草をみて、それがある病に効く薬草であると判断できる。
雑草か、それとも薬草かは、その草の価値が違うわけではなく、それを見て判断する人の能力の差による。
また宝石の目利きができる人は、転がっているなんでもない石ころの中から、宝石が取れることが分かる。」と訳されています。
さらに松長先生は、
「道に生えている何でもないような草を見て、医学・薬学を心得た人は何らかの病に効く薬がそれから採れると判断するが、そうでない人は単なる雑草として見過ごす。
道端に転がる石ころを見ても、宝石の目利きのできる人は、その中に何かの宝石が潜んでいることに気づく、ということです。
この世の中に存在するものには、いずれのものにも何らかの他にかけがえのない価値が潜んでいる、捨てるものは何もない、とみる真言密教の考えかたを端的に表現した言葉といってよいでしょう。」
と解説されています。
『碧巌録』にこんな文殊菩薩の話がございます。
文殊菩薩が、ある時に善財童子に、薬でないものを取って来なさいと命じました。
そう言われて、善財童子は、薬でないものをさがすのですが、薬にならないものはないことに気がつきました。
そこで帰ってきて文殊菩薩に、薬でないものはありませんと申し上げました。
文殊菩薩は、では薬を取って来なさいと言いました。
善財童子は、そこに生えていた一枝の草を取って渡しました。
文殊菩薩は、その草を取り上げて、この薬はよく人を殺し、よく人を活かすと言われました。
どんな草でも薬になるということでしょう。
「尽大地是れ薬」という言葉もあります。
坂村真民先生は
すべては光る
光る
光る
すべては
光る
光らないものは
ひとつとしてない
みずから
光らないものは
他から
光を受けて
光る
と詠いました。
真民先生は、随筆集『念ずれば花ひらく』のなかで、この詩のことを「わたしの詩と信仰の根幹とも言ってよい」と言っておられます。
そして、
「わたしは何もかも晩成の人間だから、人が十年かかるところを、その三倍の三十年くらいかかる。
だからこの詩もすぐれた人なら何でもないことかも知れないが、わたしは悪戦苦闘し四苦八苦して到達したのである。」
と書かれています。
この詩の「他から光を受けて光る」というところに私も心惹かれます。
真民先生もまた、
「むろんこの詩の生命は、みずから光らないものは他から光を受けて光る、というところにあるのであって、わたしはこれを返照の光とも、返照の心とも、返照の世界とも言っている。
わたしは生れつき体も弱く性格も弱く、才もなく能もない。それでいて今日まで生きてきた、いや生かされてきた。
そのことに気づいたとき、この詩が生れてきたのである。
永遠の生命を持つ大いなるものに守られている自分を知ったのである。
それは大宇宙との結びつきと言ってもよかった。
これはわたしにとって何とも言えない歓喜であった。
それ以来、世界を見る目、人間を見る目、万象を見る目が変ってきた。
わたしの生き方も変ってきた。
選ばれた者だけが光るのではなく、光らない者でも光らせてくださるのだと言う、明るいものがわたしの胸に満ちてきた。
わたしはみずから光る太陽も偉大だと思う。
しかし太陽の光を受けて光り返す月に、何とも言えない親近感と慈愛とを持つのである。
時には大きな光の環ができて、安らかに眠っている人々を、静かに守り照らしているのである。
そういう美しい月を仰いで、宇宙の心というものを知り、わたしもしみじみと、人間と人間との光の環を、大きく広げてゆきたい思念に燃えるのである。」
と書いてくださっています。
大いなるものに照らされて、かすかな光を放つ、それでいいのだと思います。
小さきは 小さきままに 花咲きぬ
野辺の小草の 安けきを 見よ(高田 保馬)
という和歌も思い起こします。
皆それぞれ、草は草のいのちを、人は人のいのちを、大いなる光を受け、自ら光を放ちながら生きているのであります。
今日五月五日こどもの日、どの子もどの子もかけがえないいのちを、それぞれの光を放ちながら生きているのであります。
横田南嶺