一日を楽しく生きる
今年の一月号から、「心に禅語をしのばせて 生きるための禅の言葉」という連載を頼まれて書いています。
六月号が早くも届きました。
私の連載は、禅語を揮毫した書とわずか四百字の文章であります。
六月号でとりあげているのは、「形(かたち)直(なお)ければ影端(ただ)し」という言葉であります。
形が真っ直ぐならば、その影も真っ直ぐであるということから、身体が真っ直ぐであれば、心も正しくなるという意味で用いています。
坐禅をするのに、腰骨を立てて姿勢を調えていると、自然と心も調うことを書いておきました。
森信三先生は、
「もししっかりした人間になろうと思ったら、先ず二六時中腰骨をシャンと立てることです。
心というものは目に見えないから、まず見える体の上で押さえてかからねばならぬのです。
したがって正しい心を整えるには、先ずからだを正し、次いで物を調える事から始めてゆかねばならぬのです。
私は今、人から「子供の教育上なにが一番大事か」と問われたら、一瞬の遅疑もなく「それは常に腰骨を立てる人間にすることです」と答えます。
この立腰を我が子にしつける事が出来たら、これこそ親として我が子への最大遺産と言えよう。
しかしそれだけにまた容易ならぬ事と言えます。」
と仰せになっています。
六月号の特集は、「一日が楽しくなるとっておきの秘訣」というものです。
そのなかに、「僕は、僕を認める!」という青羽悠さんの文章がありました。
青羽悠さん、どこかで名前を聞いたことがあるなと思いました。
京都大学在学中に出したという小説『凪に溺れる』という本を読んだことがあるのでした。
私は普段小説は読まないのですが、新聞に大学生が小説を書いたというので、この頃のお若い人はどんなことを考えているのかと思って、珍しくその小説を買って読んだのでした。
青羽さんは、楽しいという感覚は何とも捉えどころもない、曖昧なものだと書かれています。
それよりも「認めることに重きをおく」というのです。
「原稿用紙数枚分は小説を書き進められた。
夜ご飯を自分で作って食べた。……
そういう一つひとつのことを点検し、ほどほどに頷いていく。
まあよくやったよ、まあそんなものだよ」
というように書かれています。
こういう感覚は私も同感なのです。
私も、毎日「まあ、こんなものだよ」と思って暮らしています。
「あなたの笑顔は武器になる」という題で、ヨシダナギさんという方が書かれていました。
フォトグラファーという方であります。
この方が大事にされていることのひとつに、母からもらった「人生の知恵」があるというのです。
七歳の時、母が告げたそうです。
「あなたの顔は世間一般としてはそんなに可愛くない」と。
驚きの言葉です。
そのあとに、「でも、笑顔には愛嬌がある、それはあなたの武器だから、笑顔でいなさい。必ず助けてくれる人がいるから」と言われたのでした。
ヨシダさんは、「これは真実でした」と書かれています。
このヨシダさんが、日々楽しく過ごすコツとして、幸せのハードルを下げることを書かれています。
「楽しいことは、求めればキリがありませんが、苦がない状態なら、すぐ実現できます。
「今日も生きている」だけで幸せになれる……」
というのです。
これも同感です。
私は、有り難いことに毎日を楽しく過ごしています。
それは何も特別なことがあるから楽しいのではありません。
やはりなんと言っても、毎日の坐禅が楽しいのであります。
毎日、毎日同じ坐禅は一度もありません。
毎回新たな発見があります。
そこで思うのですが、私の幸せのハードルというのは、毎日坐禅すれば幸せなのだということであります。
四十数年貫いてきたことは坐禅くらいです。
十歳の時にはじめて坐禅して、ここに真実の道があると直観して、ずっとこれだけを行ってきました。
この年になっても、車の免許も何の資格も持たず、僧の資格ひとつのみ。
しかも出来ることと言えば坐禅のみ。
それだけで楽しいし、幸せなのであります。
坐禅というよりも、腰を立てて、呼吸をしていれば、それだけで十分に楽しく幸せなのであります。
そうして坐っているだけで、自然に笑顔になれるものです。
人生で、こんなすばらしいものに出会えたことが、幸せだと思っているのであります。
こんな坐禅の有り難さ、この素晴らしさ、楽しさを少しでもお伝えできれば、もう十分なのであります。
なんといっても手間暇要らず、場所もとらず、費用もかからずなのであります。
横田南嶺