思いやりの規則
今回の入制大摂心では、その規則についてそれぞれ見直しながら講義をしていました。
何の為に規則があるのか、どうしてこの規則があるのか、この規則にどういう意味があるのか、ある程度の自覚がないと、ただ規則を守りさえすればいいということにもなりかねません。
例えば、食事の時に音を立てないようにするという決まりがあります。
修行道場では、持鉢といって、各自自分の食器をもっています。
五つ重ねのお椀なのです。
上等なものは木製で塗りなのですが、私などが用いるのは、ベークライトのものです。
あれは、カチャカチャ音がするのであります。
その五つ重ねの食器を布の包みに入れて持っておくのですが、食事の時に包みから器を取り出します。
まずこの時に、音がします。
それを音を立てないように注意します。
更に食事の時にも、熱いおつゆをいただく時に、すする音を立てないようにします。
お漬物をポリポリ嚙んだりして音を立てないようにします。
そんなことができるのかと思われるかもしれませんが、実際には沢庵の薄く小さく刻みますので、音を出さずにいただくことができるようになっています。
それから食べ終わると、お湯をいただいて、その食器を各自指で洗います。
これを洗鉢と申します。
そして、それぞれの器を自分の布巾で拭いて、また布包みの中にしまいます。
そうしますと、食器洗いという仕事が無くてすむのです。
実に合理的で便利なものです。
ただ、この食器をお湯で洗うときにも音がしますので、音がしないように注意しながら行うのであります。
馴れない頃には、音がすると、その鳴らした音の何倍もの音量で叱られるのでした。
「うるさい、音を立てるな」と怒鳴られるのであります。
私なども、馴れない頃はよく叱られて、内心では、あなたの怒鳴り声の方がうるさいのになと思ったものでした。
でも、この食事に音を立てないことには意味があります。
昔は、満足に食事を取れることは貴重なことでした。
食べることも出来ない人が町にあふれていた頃もあったのでした。
また十分に食べることもできずに死んでいった御霊が餓鬼となってさまよっているとも考えられていました。
実際に平安末期の頃などは、飢えた人がたくさんいたのだと察します。
そんな中で、お寺で食事をしている音や声がすると、飢えた人を更に苦しめることになってしまいます。
自分たちが食事させてもらって申し訳ないという気持ちで、静かに音を立てずに食事をするのです。
また飢えて苦しむ餓鬼という存在も考えていましたので、そんな餓鬼を苦しめることになることから、静かにそっと食べるのだということなのです。
今の時代には、町に飢えている人を見ることも無く、餓鬼という存在にも実感はないでしょうが、それでも、食事を十分に取れない人がいることは事実です。
まして況んや世界を見ると、飢餓の状態にいる人はたくさんいらっしゃるのでしょう。
そんな中で、食事をさせてもらえるのですから、感謝と謙虚な気持ちで、音を立てずに静かにいただくのだという教えなのです。
ですから、音を立てないということは、周囲への慈悲の心の現れなのであります。
そう考えますと、音を立てたからといって、大きな声で「うるさい、音を立てるな」と怒鳴るのは間違いだと分かります。
静かにしているのが台無しになってしまうだけです。
足音を立てるなという規則もあります。
普段は下駄で歩くことが多いので、どうしても音がします。
その音がしないように歩くとなると、足に力を入れて、注意して心をこめて歩くことになります。
それだけでも大事な修行になりますが、実はこれも思いやる修行であります。
足元には小さな虫が歩いているかもしれません。足元に注意していると自然と足音がせずに歩くようになります。
また大地には、虫が眠っている場合もあります。
木の芽が出ようとしている場合もあります。
強く踏みつけると、せっかくの芽を台無しにしてしまうかもしれません。
ですから、命あるものを思いやって、大地をそっと歩くのです。
すると自然に足音がしなくなるのです。
歩く時には、手を振って肩を揺らしながら歩かないという決まりもあります。
これは丹田に意識を向けて、呼吸を調えて歩くと自然と体が揺れずに歩くようになるのです。
戸の開け閉めも静かに行うようにというのも決まりです。
これも修行しているのは私たちだけではありません。
世の中にいろんな人がいろいろの修行をしています。
まだお休みになっている人がいるかもしれませんので、朝戸を開けるにもそっと静かに開けるようにします。
これも周囲への思いやりと、自分たちだけが修行しているのではないという謙虚な心であります。
こういう心を忘れて、ただ決まりだけ守ればいいと思うと間違いを犯してしまいかねません。
思いやりが規則になっているのです。
僧堂の修行で大事なのは、感謝と思いやりと祈りであると思っています。
まずこういう暮らしをさせてもらえることへの深い感謝が、厳粛な思いと共にあらねばなりません。
それから、まわりへの思いやりであります。
これが規則のおおもとです。
自分たちだけが食事させてもらうことにもったいないという思いをもって、まわりへの思いやりの心で静かに音を立てずにいただくのであります。
大地の中にいる生き物にまで思いやって、静かに歩くのです。
それでも十分に思いやることはできませんので、命あるものが皆幸せでありますようにと祈りを捧げるのです。
感謝と思いやりと祈りの修行だということを忘れてはなりません。
横田南嶺