父母の恩に報いる
安居というのは、お釈迦様の時代に、雨期の間、外に出歩くことをやめて、一カ所に集まって修行したという故事に則って、今も四月乃至五月から、三ヶ月ほど道場にこもって修行するのであります。
摂心というのは、一週間修行僧は道場から全く外に出ることなく、坐禅修行に集中するのであります。
昨年の四月は、緊急事態宣言でこの入制が六月まで延びてしまったのですが、今年は例年通り四月二十日に行うことができました。
いつもであれば、二十日には、円覚寺の山内の和尚さま方にもお集まりいただいて、開講という講義の始めの儀式を行うのですが、それは取りやめにして、修行僧のみで行いました。
その入制の前の晩には、総茶礼という儀式を行います。
師家をはじめ修行僧が皆一堂に集まって、師家が、祖師の残された言葉を読んで、修行に入る心構えを説きます。
そうして、皆で一椀の茶を喫して、修行に臨むのであります。
古式ゆかしく、伝統に則って行うのであります。
その時に師家が拝読する言葉を、「亀鑑」と申します。
亀鑑の亀は、昔中国で亀の甲羅をあぶって、吉凶を占ったことから、これからの行く末について考えることであり、亀鑑の鑑は今の自分の姿を省みることです。
祖師の言葉を読んで、これからどのような方向を目指して進んでゆくのか考え、それに向けて今の自分の修行はこれでいいのかと省みるのであります。
修行道場によって、それぞれの「亀鑑」がございます。
円覚寺の僧堂では、今北洪川老師の作成された「亀鑑」を拝読しています。
洪川老師の名文なのであります。
漢文をそのまま読むのが一番いいのですが、それは略して、ここで、そのおおよその現代語訳を記します。
「修行僧たちよ、
皆は、すでに世俗の縁を絶って、仏弟子となったのだ。
生活のために仕事をすることは、あなた方のなすことではない。
では、いったい何をもって、父母があなた方を産み育ててくれた苦労の大恩に報いるのか。
両親においしいご馳走を差し上げるということは、あなた方が恩に報いる道ではない。
学問で業績を上げて、あなた方の両親の名を揚げることは、あなた方が恩に報いる道ではない。
お経をあげて、両親の供養をすることは、あなた方が恩に報いる道ではない。
では、いったい、あなた方が父母の恩に報いるのは、何をしたらいいのであろうか。
それは、ただひたすら真の仏法の為に、辛く苦しい修行に耐えて、本当に世の宝となるような僧になること、この一事あるのみなのだ。
これをたとえていうと、大きな家を建てるようなものだ。
この道で間違いないという確固たる信念を地盤として、真の道を求めようという志願を礎石として、実地に悟ることを棟梁として、熱意をもって一心に勤め励んで、朝晩の参禅を怠らず、歳月が長くかかるのを厭わずに、どこまでも自分を偽ることなく、怠らず勤めてゆくと、将来きっと大きな家屋を建てて、素晴らしい建物になることは間違いないのだ。
そのようになって、はじめて真に世の宝となるような僧になるのだ。
そこまでくると、今生の父母の恩に報いるばかりではなく、遠い過去から百回も千回も生まれかわって恩を受けてきた父母の恩に、一時に報いることができるのだ。
大いなるものだ、心を見つめ自己の本性を明らかにすることの功徳というものは。
ただただ、あなた方は、二祖慧可が達磨大師の元に入門しようとして自らの腕を断ち切って決意を示した親切や、臨済禅師が黄檗禅師の元で純一に修行していた様子や、慈明禅師が自らの股を錐で刺して自らを激励していたことなどを思い起こして、毎日毎日修行して一時も無駄にせずに努力してわずかの時間も怠ることのないようにしなさい。
古人は言っているではないか、仏道に入りながら、真理を明らかにすることができなかったならば、将来動物に生まれかわって、生前にいただいた信施を返済することになると。
何と恐ろしいことではないか、慎むべきことではないか。
勤めよ、そして自ら戒めよ。」
という内容の文章なのであります。
洪川老師は、もと儒教の学者でありましたので、儒教の教えに依って親孝行ということを大切に思っていたのでした。
どうしたら私たちを産み育ててくれた両親の恩に報いることができるのか、それは真の僧となって人々の為に尽くすことにほかならないのです。
思えば、私も三十年ほど前、この円覚寺の僧堂に来て、当時の師家であった足立大進老師が、この亀鑑を読まれるのを拝聴して、身の毛のよだつ思いがしました。
それまでは、折りにふれて、親に菓子などを送ったりしていたのですが、少しばかり、親にご馳走を差し上げるくらいのことなど、真の親孝行ではないことを思い知ったのでした。
本当に修行しなければ、自己の心を明らかにしなければと思ったのでした。
自己の心を明らかにし、自己の本性を見ることによってこそ、真に人を導くことができるようになるのであります。
多くの方々の信施をいただいて修行できます。
これを無駄にしないように、二十数名の修行僧が道場にこもって自己を見つめる修行に専念するのであります。
毎年入制の前にこの文章を読むと三十年前の感動が蘇って、修行しなければと思うのであります。
横田南嶺