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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.04.20
今日の言葉

されたら嫌なことは人にもしない

円覚寺の幼稚園の入園式に出てきました。

幼稚園の入園式も、昨年は六月にまで延期されたのでした。

桜の花は、散ってしまったものの、いつものように四月に行うことで出来るのは有り難いことであります。

今年は、十二日に行われました。

幼稚園の入園式というのは、賑やかなものです。

なかなか、まだジッと坐っていることが難しいのです。

私が幼稚園に着いて、園舎の中に入ると、もう大きな声で泣いている子がいました。

先代の管長も、つねづね幼稚園で話をするのが一番難しいと言っていました。

なかなか聞いてくれないのであります。

それでも、仏さまをお祀りしているホールに皆が集まって、先生が、「管長様が入堂されます。みなさん手を合わせましょう」というと、少しは、静かになるものです。

式の直前まで泣いていた子も、式が始まると、静かにしてくれていました。

私の話は、極めて短いもので、

「こうして、幼稚園に参りますと、私も五十数年前のことを思い起こします。

今もふるさとに帰りますと、親に言われることであります。

私の幼稚園の入園式に親が出てくれた時のことです。

親のいうには、大きな声で泣いている子がいて、いったいどこの子があんなに泣いているのかと思ってみたら、自分の子だったので、恥ずかしかったと。

私もよく泣いていたそうなのであります。

あれから、五十数年経ちますと、このようになります。

ですから、今泣いていても心配ありません。

長い目で温かく見守ってあげたいと思います」

という一分ほどの挨拶で終わりました。

その幼稚園に日めくりカレンダーが掛けられていて目にとまりました。

仏教伝道教会が作っている『元気になる 日めくり ブッダせいかつ』というものです。

ちょうど十二日のところには、

「自分がされたら
いやだなあ、
と思うことは
人にもしない!」

と書かれていました。

解説もありました。

「かげ口や、いじめ、仲間はずれなど、もし自分が人にされたら、つらくて悲しくなることがあるよね。君が「いやだなあ、つらいなあ」と思うことは、ほかのだれでも同じように感じるんだ。相手の気持ちを考えることをわすれずに、人を悲しませないようにしようね。」

と書いてあって、

その横に、原典の言葉ありました。

「すべての者は暴力におびえ、すべての者は死を恐れる。わが身にひき比べて、殺してはいけない。殺させてはいけない。ーダンマパダ129より」

とありました。

良い言葉だなと思って書きとめてきました。

毎日、こうしてブッダの言葉に触れるといいと思いました。

実にこの事は、仏教の黄金律ともいうべき真理であります。

黄金律というと、キリスト教倫理の原理を指します。

マタイ福音書7章12節にある「人からして欲しいと思うことのすべてを人々にせよ」を指すと『広辞苑』には説明されています。

『論語』には、

「子貢問うて曰わく、
一言にして以て終身これを行うべき者ありや。
子の曰わく、其れ恕か。
己の欲せざる所、人に施すこと勿れ。」

とあります。

「子貢がおたずねしていった、「ひとことだけで一生行なっていけるということがありましょうか。」先生はいわれた「まあ恕(思いやり)」だね。自分が望まないことは人にしむけないことだ。」

と岩波文庫の金谷治先生は訳されていました。

して欲しいと思うことをしてあげるということはなかなか難しいことに思います。
たとえば、私が甘党で、ぜんざいを食べさせて欲しいと思ったとしても、それを誰かにしてあげようにも、その人がぜんざいを嫌いであったら、迷惑にしかなりません。

もっとも、キリスト教で説かれる黄金律は、そんな程度の低いものではなくて、きっと高次元のものだと思います。

それよりも、消極的に聞こえるかもしれませんが、して欲しくないことをしないという事の方が、確かなことに思います。

誰しも、殺されたくはありません。

暴力をして欲しいと望むものもいません。

「自分がされたらいやだなあ、と思うことは人にもしない!」

これが「戒」の根本精神であると思います。

うそをつかれたり、悪口を言われたりするのは、嫌なものです。

ですから、人にもうそをついたり、悪口をいうのはしないようにするのです。

男女も問題にしても、されたらいやなことをしないというように、相手を思いやる心さえあればいいのであります。

お釈迦様に有名な話が伝わっています。

コーサラのパセナーディ王が、ある時に王妃とともに、城の高楼に上って、眼下に広がる町を眺めていました。

そして王妃に問いました。

この広い世に、自分自身よりも愛しいと思うものはあるだろうかと。

王妃は、しばらく考えて、この世に自分よりも愛しいと思われるものはありませんと答えました。

王もまた、そうとしか思えないと言って、二人でお釈迦様のもとを訪ね、自分たちの考えは間違っていないか伺いました。

お釈迦様は、「人は、どんなに思いを馳せても、自分よりも愛しいものを見いだすことはできない。それと同じく他の人々にとっても自己はこの上なく愛しい。おのれの愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ」と説かれたのでした。
誰しも自分が愛しいという思いを認めながら、そのことを知った上で、他人を傷つけてはならぬと示されたのです。

他人を傷つけない、これは、お釈迦様の教えの根幹です。

これも相手を思いやることなのです。

自分が自分を愛しいと思うように、あの人にとっても自己は愛しいのだと、文字通り「思いやる」のです。

自分がされたら嫌だなと思うことなので、相手もきっと嫌だろうと「思いやる」のであります。

ところが、人間は浅ましいところがあるもので、されたら嫌だと分かっていて、それをあえて、人にしたくなってしまう一面も持っています。

そんな愚かさを克服するには、相手を「思いやる」ことであります。

これを孔子は「恕」と言いました。

仏教では「慈悲」と言います。

幼稚園の子にも、泣くんじゃないと言うよりも、私も泣いていましたと伝えた方がよろしいかと思ったのでした。

 
横田南嶺

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