花まつり
降誕会と申します。
明治時代に、浄土真宗の安藤嶺丸という方が、ちょうど花の季節でありますので、花まつりと名づけました。
全国のお寺では、お釈迦様の降誕をお祝いする法要が行われます。
イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスには及びませんが、仏教の行事の中では、一般にもよく知られたものであります。
白い象が、町を行進する光景などが見られたりします。
もっともこういう行事もだんだん小さくなっているのかもしれません。
昨年は緊急事態宣言の最中で、内々でお経をあげただけでありました。
今年は、円覚寺では仏殿に於いて山内の和尚様方によって行う予定であります。
残念ながら、一般の方々にはお堂の中に入ることができません。外からのお参りとなります。
一昨年までは、多くの皆さまに仏殿にお入りいただいて、法要を勤め、終わった後には甘茶を振る舞っていたのでした。
降誕会の法要では、誕生仏というお釈迦様がお生まれになった時にお姿のお像に甘茶をかけるのであります。
これはお釈迦様がお生まれになった時に、龍が天からやってきて、香湯をそそいだということに基づきます。
お釈迦様、お釈迦様とお呼びしていますが、「釈迦」というのは、インドとネパールの国境付近に住んでいた地方豪族の総称であります。
ですから、仏教の開祖を「釈迦」と呼ぶのはおかしいのです。
もっとも、今となっては、「釈迦」が仏教の開祖の名としてすっかり定着しています。
「釈迦牟尼」とお呼びしたりします。
「釈迦牟尼」は、「シャカ族の尊者」という意味です。
それを「釈尊」と言ったりします。
釈迦族は、カビラヴァストゥを首都とする小国でありました。
コーサラ国とマガダ国という二大国があり、釈迦族は政治的にはコーサラ国に属していました。
お釈迦様は、その釈迦族の王子としてお生まれになりました。
インドでは、カースト制度があって、それは階級制度のようなものですので、バラモンという祭官とクシャトリアという王族、ヴァイシャという庶民、それにシュードラという隷民に分けられていました。
お釈迦様は王族ですので、クシャトリアであります。
もとをただせばアーリア人であります。
紀元前六から五世紀頃にお生まれになりました。
お父さまは、スッドーダナ、母はマーヤー夫人であります。
ある夜、マーヤーは奇妙な夢を見ました。
純白の象が、天から降りてきてマーヤーの右の脇から胎内に入ったのでした。
そして懐妊したのでした。
花まつりに白い象が行進するのは、このことを表しています。
マーヤーは、実家のあるコーリア国に向かって出発しました。
お産は妻の実家でするのが、当時の法典の規定でした。
マーヤーは、ルンビニー園のアショーカ樹の花房を折ろうと右手をあげた時に、右の脇から生まれたと伝えられます。
マーヤー夫人は、お釈迦様を生んで七日でお亡くなりになったのでした。
また伝説ですが、お釈迦様がお生まれになってすぐに七歩歩かれて、ひとつの手は天を指し、もう一方の手は地を指して、
天上天下唯我独尊と仰せになったのでした。
この頃は、よく天にも地にもかけがえのない尊い命というように法話などで説かれていますが、元来は自らを「世間において私が最もすぐれたものである」と宣言されたのでした。
この王子は、「シッダッタ」と名づけられました。
梵語では、「シッダールタ」と申します。
これは「目的を完成したもの」という意味です。
父王であるスッドーダナは、ヒマラヤ山中に住むアシタ仙人に、人相を見てもらいました。
するとアシタ仙人は、生まれた子の顔を見て涙を流しました。
何事かと言うスッドーダナに、アシタ仙人は、この子は、家にいれば、世界を統一する王、転輪聖王になるであろうし、出家すれば仏陀になるだろうと言いました。
そしてむしろ仏陀になることを選ぶだろうと言ったのでした。
しかし、その時まで自分は生き長らえていないので、仏陀の教えを聞くことができないのが残念ですと涙を流したのでした。
お釈迦様がお生まれになってまもなく母を亡くしています。
そして母の妹に育てられます。
自分の生が、母の死と引き換えになったという深い悲しみを抱えてお生まれになったのでした。
生存することは、苦しみであるというお釈迦様の教えのもととなる原体験でありましょう。
勝つ者
怨みを招かん
他(ひと)に敗れたる者
くるしみて臥す
されど
勝敗の二つを棄てて
こころ寂静(しずか)なる人は
起居(おきふし)ともに
さいわいなり(『法句経』201、友松円諦訳)
という言葉が残されていますように、この世における争いから離れて、心安らかなる道をお示しくださったのでした。
これがお釈迦様の教えの基本であります。
「彼 われをののしり
彼、われをうちたり
彼 われをうちまかし
彼 われをうばえり」
かくのごとく
執する人々に
うらみはついに
やむことなし (『法句経』3)
と説かれました。
まこと 怨みごころは
いかなるすべをもつとも
怨みを懐くその日まで
ひとの世にはやみがたし
うらみなさによりてのみ
うらみはついに消ゆるべし
こは易(かわ)らざる真理(まこと)なり
(『法句経』5)
という真理を示されました。
「我に子らあり
我に財(たから)あり」と
おろかなるものは
こころなやむ
されど、われはすでに
われのものにあらず
何ぞ子らあらん
何ぞ財あらん(『法句経』62)
所有(わがもの)というものなくとも
われら
こころたのしく
住まんかな
光音とよぶ天人のごとく
喜悦(よろこび)を
食物(かて)とするものと
ならんかな(『法句経』200)
これが自分のものと主張し執着して生きることが苦しみであり、執着を離れて施しをして喜びを得ることを説かれました。
この世にあって争わない生き方、慈しみの心を持って生きること、私は幼い頃から、そんなお釈迦様の教えをよりどころとして、今日まで参りました。
この日を迎えるたびごとに、お釈迦様の教えに出会えたことの喜びを感じます。
ひとの生を
うくるはかたく
やがて死すべきものの
いま生命あるはありがたし
正法を
耳にするはかたく
諸仏の
世に出づるも
ありがたし (『法句経』182)
本日紹介した仏陀の言葉、法句経は、友松円諦先生の訳であります。
友松先生の訳で学んできましたので参照しました。
最後の句は、平素お世話になります佐々木閑先生の訳を紹介しておきます。
人として生まれるというのは大変なことである。
死すべき者が生きていくというのは大変なことである。
正しい法を聞くというのは大変なことである。
諸仏がこの世に出現するというのは大変なことである。
(佐々木閑著『ブッダ 繊細な人の不安が穏やかに消える100の言葉』より)
こうして皆さまとお釈迦様の教えについて学ぶことができるのも、二千五百年前の四月八日お釈迦様がお生まれになったおかげなのであります。
横田南嶺