さまざまの事思い出す
芭蕉の句であります。
何度口ずさんでも味わいのある句であります。
ひさし振りに故郷を訪れた芭蕉が、咲き誇る桜を見て、二十年以上昔に仕えた主君の面影をしのんだそうです。
今年の桜は、どのように見られるのでしょうか。
咲くほどに寄るな寄るなと目黒川
という川柳がございました。
これも今年の複雑な状況を短い句でよく表しています。
外出は控えてと言われても、桜が咲くとどうしてもでかけたくなるものであります。
一人くらいいいかなと思って出掛けると、多くの人が同じように思って出掛けていたのでしょう。
「満開の桜に背向けた母」という毎日新聞の「みんなの広場」への投稿にも目を奪われました。
七十代の主婦の方の文章です。
桜の季節にあると亡き母を思い出すというのです。
毎年、母に花見に誘うのですが、いつも桜に背を向けて首を横に振られたそうです。
昭和二十年四月、その方の父は、まだその方が生後四ヶ月の時に出征したそうです。
母は四ヶ月の赤ん坊を背負い、近くの駅まで見送りました。
駅で満開の桜を二人で眺め、ついに母は一緒に汽車に乗ってしまったのでした。
最後の覚悟をしながら、沿線の桜を眺めたのでした。
父は、「どこまで来てもきりがない。ここで降りなさい」といって五区間ほど一緒に乗って別れを告げたのでした。
父は、沖縄特攻作戦で、潜水艦に乗って出陣し、終に帰らぬ人となったとのことでした。
永遠の別れと満開の桜、母は七十三歳で亡くなるまで、ずっと心の中にあったのでした。
こんな思いをされた方にとっては、実に深く、
さまざまの事おもひ出す桜かな
でありましょう。
月末に所用があって、上京しますと、桜の花が散り始めていました。
町には、すでに多くの人が出ていました。
マスクをしてなければ、コロナも無かったかのような光景でした。
都内の桜というと、私が出家した寺の近くにある六義園の桜を思い出します。
六義園は、柳沢吉保公が造った大庭園であります。
ことにしだれ桜は有名であります。
学生の頃から、長らく都内にも住んでいたのですが、学問と修行にのみ打ちこんでいて、桜など見たこともありませんでした。
六義園の桜は、報道されたのを知るくらいでした。
たった一度だけ、この六義園の桜を見たことがあります。
得度の師である小池心叟老師が、九十歳を超えられて、ご体調がよろしくなく、私が当時、円覚寺僧堂師家を務めながら、龍雲院の兼務住職を務めるようになりました。
これが平成十七年の暮れのことでした。
寺務のため鎌倉から通っていたのでした。
いつも寺務のみに追われていたのですが、一度心叟老師を花見にお連れしてさしあげようと思って、当時はもう車椅子のお世話になっていたのですが、何とか車で六義園までご案内させてもらったのでした。
私にとっては、六義園の桜は、初めてでありました。
きれいな桜の花だったのですが、学生の頃から、ずっと師匠の後ろ姿を追いかけてきたのが、今や車椅子を押して歩くようになって、何とも言えぬ思いがしたのでした。
その年の暮れに、心叟老師は九十二歳でお亡くなりになりました。
翌る年の桜の花を見ると、何か辛い思いがして、目を伏せたくなるように思ったものでした。
東日本大震災の年の桜も忘れられません。
震災が三月にあって、そのあと原発事故の放射能の問題がございました。
都内にも影響があるという報道もなされて、その年の桜は満開になっても円覚寺の境内には誰もいなくなったのでした。
これからどうなるのだろうという不安の中で眺めた桜でした。
昨年の桜もまた記憶に残ることでしょう。
昨年の四月に緊急事態宣言が出される前に、段々コロナの報道が深刻になって、まだ宣言は出されていないものの、円覚寺の桜を見る人はほとんどいなくなっていたのでした。
そして、今年もまた桜が満開になりました。
八木重吉の詩にこんなのがあります。
綺麗な桜の花を見ていると
そのひとすじの気持ちにうたれる
自分もひとすじに生きているだろうかと、桜を眺めつつ自問自答します。
岡本かの子さんの短歌も思い起こします。
桜ばな いのち一ぱいに 咲くからに
生命をかけて わが眺めたり
今日は四月一日、新年度の始まりです。
咲く花を見ては、あの一途に咲く姿に見習いたいものであります。
横田南嶺