分けられないもの
朝の静かなひとときです。
コロナ禍の前には、いろんな仕事が多くて、とてもこんな静かな時間は無かったのですが、この頃朝はそのようにして過ごしています。
各本山の季刊誌やさまざまな情報誌に目を通していると、なるほどと思うことも多々ございます。
仏教情報センターで発行されている『仏教ライフ』春彼岸号138号というのがあって、目を通していました。
『コロナ禍を生きる』と題して、仏教情報センター理事長の長谷川岱潤という方が執筆されていました。
今年に入って、感染者の数はおさまらない状況を経営学者は、「トリレンマ」に陥ったというと書かれていました。
こういう新しい言葉を見ると、どういう意味なのかと興味が湧きます。
学べばまたひとつ新しい知識が増えます。
『仏教ライフ』に書かれている言葉を引用させていただきます。
「トリレンマとは三つのことが同時に成り立たない関係で、いわゆる三つどもえのことだそうだ」と書かれています。
三つとはどんなことかというと、
「健康」と「経済」と「自由」の三つがトリレンマになったのだそうです。
「感染を防ぎ、経済への影響を少なくし、自由気ままに生きるという理想は、もはやその三つがすべて絶望的ということだそうだ」というのです。
なるほどその通り、「健康」のことを第一に考えれば人と人との接触を減らして往来を制限するしかありません。
すると経済が打撃を受けます。
自由気ままに外に出掛けていては、感染が広まり健康が害されてしまいます。
三つどもえと言えばそれでいいようにも思いますものの「トリレンマ」という耳慣れぬ言葉を使うと、実に今まで経験したことのない状況になっていると感じられます。
文章の終わりには、
「まだまだコロナ禍の続く中、私たちは宗教者としての自覚と誇りを持って、やれることをしっかり行い、人々に寄り添う心を忘れずに歩んでゆきたいと思う」と書かれていました。
円覚寺としても頭の痛いところであります。
寺の様々な事情を考えると、大勢の参拝者に来てもらいたいところです。
しかし、大勢になると各自の「健康」に問題が出て来ます。
自由気ままにはゆかないのです。
難しいことだな、どうしたらいいのかな、答えは見つからないなと思って、その『仏教ライフ』を読み進めていると、
「分けられない」もの
という短い文章が目に入りました。
無断ですが、引用させていただきます。
「分かる」ということは
「分ける」ということ
好きと嫌い、綺麗と汚い
善いと悪いなどたくさんある
「分かったつもり」でいることは
自分の中にある物差しで
ものごとを「分けている」だけ
それにこだわると怒りが生まれてくる
それにとらわれると不安が生まれてくる
「分けられない」ものがあることを知り
受け入れていくことが大切
だって、私たちの「いのち」は
何かに「分けられない」から
自分の物差しをすてて、ありのままを見ていこう
という言葉です。
なるほど、良い言葉だなと感心して書き写しました。
書かれた人は誰かと見てみると、
「臨済宗相談員 中山宗祐」とありました。
私もよく存じ上げている中山君なのでした。
中山君がこんな素晴らしい文章を書いてくれているのだと感動しました。
中山君には無断で転載させてもらってすみません。
そういえば、二月二十五日の毎日新聞の夕刊に、
「詩の橋を渡って」という和合亮一さんという詩人の方の文章がありました。
「震災後の今を生きる」という題でした。
そこに田口犬男という詩人の詩が紹介されていました。
「大海から
一杯の水を掬っても
それはもう海ではない
それはただの水だ」
という一節です。
これも良い言葉だな、深い言葉だなと思って書き留めていたのでした。
和合さんは、
「これは連綿と受け継がれていく生命のありかそのものを、大きく「海」ととらえようとしていると言えるだろうか。
「真実は
誰もが海なのだ
だが私たちは
「一杯の水」に
なってはいないだろうか」
この詩句に触れて、先日の余震によりあらためて感じた、震災後の今を生きているという真実と、生じてきた社会の様々な分断を思った。」
と書かれています。
確かに、「分かる」ということを私たちは求めて生きています。
学校の勉強でも「分かった」と言えば褒められ、「分からない」というと叱れます。
しかし世の中には、「分からない」ものが多いのです。
いや、むしろ「分かった」ものが少なくて、「分からない」ものの方が多いでしょう。
分かるということは、大きな海の水をすくい取って分析するような作業です。
分かったとしても、それはもう「大海」ではないのです。
「大海」はいのちのおおもとです。
分断されることのないひとつながりのいのちであります
みなひとつながりのいのちから生まれて来ています。
分断ばかりして、分かることばかりを求めるのではなくて、分からないこと、分けられないいのちの「大海」に身を委ねることも大事ではないかと思います。
横田南嶺