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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.02.17
今日の言葉

精進、無理のない精進

心療内科医の海原純子先生が、毎日新聞日曜くらぶに連載されている「新・心のサプリ」は、いつも楽しみに拝読しているものです。

なにかしら、必ず参考になることが書かれています。

二月十四日には、「精いっぱい生ききる」と題して書かれていました。

この「精いっぱい生ききる」という題だけ見ても、大いに関心を持つのです。

恩師の松原泰道先生に、私が中学生の時に教わった詩が、

花が咲いている
精いっぱい咲いている
私たちも
精いっぱい生きよう

というものでした。

私が管長に就任してまだ間もない頃に、禅文化研究所から、『精一杯生きよう』というDVDを出したこともあります。

また泰道先生は、最晩年に、「生ききる」という言葉もよく揮毫されていました。

海原先生の文章を拝読すると、さすがに松原泰道先生のことは出てきませんが、ホルヘ・ブカイ氏の『寓話セラピー』の話が出ていました。

この『寓話セラピー』を、私は天台宗円融寺ご住職の阿純章さんから教わって知っています。

YouTube動画の一口法話の第二十七回「仏陀はどこに?」の話のもとになっているのが、この『寓話セラピー』にある話であります。

この『寓話セラピー』について海原先生は、

「16年前に初版が発行された本だが、今読んで全く古く感じないから時を超えた哲学があるのだと思う」と評価されています。

寓話というのは、譬え話ですが、動物などを擬人化したものが多いと『広辞苑』には書かれています。

海原先生は、コラム記事で、

「生クリームの中の蛙」という話を紹介されています。

どういう話かというと、

「昔、生クリームの瓶に落ちてしまった2匹の蛙がいた。

2匹ともしばらくして自分たちが沈み始めていることに気がついた。

生クリームは濃い液体で浮いているのが難しかったのだ。

そこで2匹は手足をばたつかせて浮いていようとした。

しかしこれは労力がいることですぐに沈んでしまい顔を出して浮くのが難しくなってきた。

1匹は「こんなことをしてもどうせだめ」とあきらめ沈んでいった。

もう1匹の蛙のほうは我慢強いというか、「いくら死が迫っているとはいえ最後まで生きるんだ」と足をばたつかせていた。

重い液体の中では1センチも進めず元の場所に浮いたままなのに同じ場所を何度も足を動かし続けていた」

というのです。

絶体絶命の状況です。

一匹の蛙は、もうあきらめてしまい、もう一匹の蛙は、あきらめずにいたのでした。

「するとさんざん足を動かしたために突然生クリームが固まってバターになり蛙は驚いてひとっ跳びして瓶の縁に飛び移り帰って行ったのだという」

話なのです。

海原先生は、この話に、

「『どうせやってもだめ』と思ったり、『もう年だから』と年齢を言い訳にしたりして努力を放棄する傾向がある時のヒントが隠れている」

と仰っています。

そして

「この寓話、蛙が死と向かい合った中で「できる限り自分ができることをする」というところが心にしみる」

と書かれているのです。

これも深い話だなと思いました。

そして、私はこの話に精進努力することに秘訣もあるなと思いました。

あきらめてしまっては問題になりません。

大事なのはもう一匹の蛙の努力なのです。

この努力といっても、すぐに息が切れてしまうような努力では、すぐ力尽きて沈んでしまって終わりでしょう。

ずっと継続できる努力が大事なのです。

息が切れない程度の根気良い努力精進です。

ちょうど、別のことを調べていて、ひろさちやさんの『マンダラ人生論』を紐解いていました。

これは実話かどうか、どこに出典があるのかも分かりませんが、小野派一刀流の流祖の話です。

江戸初期の剣術家小野次郎右衛門忠明のところに一人の剣客が弟子入りを請いました。

「私が本気で修行すればどれくらいで奥義がきわめられますか」と問います。

小野忠明は、「貴殿の腕前なら五年でいいだろう」と答えました。

更に「では寝食を忘れてやればどれくらいかかりますか」と問うと、

「それなら十年かかる」と答えられました。

「では命がけでやったらどうですか」と問うと、

「命がけでやると、一生かかっても奥義に達することはできぬ」
と答えたという話です。

ひろさちや先生は、「仏教で説く「精進」とは、「努力」の意味ですが、努力といっても、努力のしすぎはよくない」と解説されています。

「血眼になってする努力はいわば執念であって、仏教は不可としている。

仏教でいう精進は、ゆったりとした努力である。

ゆったりと、そして着実な努力をつづけることを、仏教は教えているのである」

と説かれています。

先の生クリームの蛙も同じです。

血眼になって足を動かしていると、すぐに疲れてどうにもならなくなるのです。

息が切れないように根気よく、動かし続けるところに意味があります。

先だって、和尚様方が集まる席で、一人のご老僧が、禅僧は雲水修行している時が一番良いのであって、あとは駄目になるばかり、和尚などというけれども、「なれのはてだ」と言っていました。

これはご謙遜であって、その方はご立派な和尚様です。

修行僧が尊いと語って下さるお心も有り難いものです。

しかし、もし本当に僧堂で修行している時が一番尊くて、そのあと堕落の一途を辿るとしたら、これは問題であります。

実際には、そういう一面もないとは言いがたいのです。

もちろん、先の老僧のように、ずっと精進し続けておられても、自分は僧堂のあとも努力し続けているとは口にはしないのが美徳です。

ただ、実際には、僧堂の修行はそれこそ厳しく行いますので、あと続けてゆこうとは思い難い傾向もあります。

そうなると、ただ「昔、僧堂で苦労した」という昔話だけになってしまうこともあります。

これでは、正しい精進とは言えません。

お釈迦様は涅槃に入るにあたっても

すべてのものはうつろいゆく、
怠らず精進すべし

と仰せになったのです。

お釈迦様ご自身もまた、安住することなく、法を説き続ける、精進のご生涯であったのでした。

精進は、息の切れない、無理のない精進でなければなりません。

それを倦まず弛まず、ずっと継続し続けるのです。

それこそが、正しい精進であり仏道であります。

 
横田南嶺

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