娑婆
『中外日報』という宗教専門誌に、曹洞宗国際布教師の、シュプナル法純さんが、仏教英語講座というコラム記事を書いてくださっています。
今回は、娑婆という言葉についてです。
そのコラムの冒頭に、書かれていた言葉です。
「娑婆」はサンスクリットのサーハー、意味は、「堪えがたきを堪える」で、英訳はdifficult to standだそうです。
法純さんは、
「この世は様々な苦しみ悩みが絶えず、堪えがたきを堪えて生きていかねばならない。だからこの世は「娑婆世界」という、ボーナスでハワイへ行っても、娑婆は娑婆だ」
と書かれています。
更に、「健康で家庭円満、仕事がある、命もある。こうしたことは当然と思いがちだが、実は逆だ、震災、疫病、戦争などこそが娑婆の面目である。
どこでもいつでも生命は危険にさらされている。何事もなく生きていられるというのは当然ではなく、むしろ不思議なことだ」
というのです。
これはまさしくその通り、娑婆は漢訳では「忍土」です。
文字通り耐え忍ぶところなのです。
正しい意味を理解していないと若い僧までが、修行道場を出ると、「娑婆の空気はうまい」などと口にしかねません。
岩波の『仏教辞典』にも
「サンスクリット語Sahaに相当する音写。われわれが住んでいる世界のこと。saha は<忍耐>を意味する。西方極楽世界や東方浄瑠璃世界と違って、娑婆世界は汚辱と苦しみに満ちた穢土であるとされたため、<忍土>などとも漢訳されている」
と解説されています。
法純さんは、
「生命の危うさを見逃すのではなく、それを娑婆の本質のリマインダー(備忘通知)と受け止める。こうして難題に立ち向かい行ずるところに、かえって大安楽が立ち現れる。それを保証するのが仏法というものだ。だから娑婆をtest of endurance「忍耐試練」として受けとめよう」
と言うのです。
なるほどその通りとしか言いようがありません。
この世は、苦の世界だなと思っていると、毎日新聞二月四日の朝刊の「ひと」欄に長谷川和夫さん(91)が紹介されていました。
お名前のそばには、「認知症を公表した専門医」と書かれています。
認知症といいながらも、そこにあるお写真は実にしっかりとされた表情で写っています。
どこかで聞いたことのある名前だなと思っていると、思い出しました。
今年になって知人からいただいた本にあったのです。
その本は
『認知症専門医の父・長谷川和夫が教えてくれたこと 父と娘の認知症日記』という題のものです。
「ああ、この本の方だ」と思い出しました。
すぐに思い出したので、私はまだだいじょうぶかなと思いました。
長谷川さんは、聖マリアンナ医大学長を歴任され、認知症介護研究・研修東京センター名誉センター長でいらっしゃいます。
「ひと」欄には、冒頭
「どんな人でも認知症になることを知ってほしい」
という言葉があります。
ご自身が二〇一七年に認知症と診断されたそうなのです。
しかし、ご自身の体験から、周囲の人との関わり方によって自分らしく生き続けることができると知ったというのです。
「認知症になってもそれっきりではないことを伝えたい」
と書かれています。
私がいただいた本の「はじめに」に、娘さんが
「講演会でスムーズに話ができることもある。しかし、繰り返し同じことを言ったり話が脱線したり、質問に関係のない話を延々とすることもあった。
そのようなとき、周りの人は近くにいる私に目配せをして「まりさん、いいのよ。そのままで。私たちはわかっていますから」というサインを送ってくる。
父は必死に話をしているんだ。
同じことを繰り返すのも、それを一番伝えたいと思っているからなのかもしれない。
しかし、ときどき自分が何を話しているかわからなくなってしまい、グルグルと頭や気持ちが混乱してしまうこともある。そういう父の頑張る姿を応援するのが私の役目なのだが、それが上手くサポートできないことも多かった。
やはり周りの方々に、ただ見守るだけではなく、ときには話を少し先に進めてもらったり、助け舟を出していただくのをお願いすることも大切なことではないかと思うようになった。上手な聴き手のサポートをいただくと、父は安心して自分を表現して、豊かな感性を持って人に言葉を伝えることができていたからだ」
と書かれています。
あたたかい親子の関係が想像できます。
この本のなかで、娘さんが谷川俊太郎さんの詩を、父に知らせてあげた話がでています。
朝日新聞2008年9月5日夕刊「谷川俊太郎詩」に掲載された詩だそうで、娘さんがファックスで父に知らせると、すぐに「素晴らしいね」と電話があったそうなのです。
キンセン 谷川俊太郎
「キンセンに触れたのよ」
とおばあちゃんは繰り返す
「キンセンって何よ?」と私は訊く
おばあちゃんは答えない
じゃなくて答えられない、ぼけてるから
じゃなくて認知症だから
辞書を引いてみた。金銭じゃなくて琴線だった
心の琴が鳴ったんだ共鳴したんだ
という言葉から始まります。
更に
ひとりでご飯が食べられなくなっても
ここがどこだか分からなくなっても
自分の名前を忘れてしまっても
おばあちゃんの心は健在
私には見えないところで
いろんな人たちに会っている
きれいな景色を見ている
思い出の中の音楽を聴いている
という詩なのです。
その詩について、長谷川和夫先生は、
「私たちは認知症の方の物語を共感を持って聴くことが非常に大切です。
自然に心のなかに生まれてくる内的体験、心の物語を温かく受け止めて支えていくことがケアだと思います。
その人らしさを大切にするケアであり、利用者を中心に置くケアにつながります。
ことに谷川さんの詩は、何も言う術を持たない認知症の人が心の琴線にふれる体験をされていることをうたったものと思います。
そしてそれを感じとる詩人の「ケアする心」に深い感動を覚えました」
と書かれています。
この世は、娑婆世界です。生老病死の苦は誰しも避けられません。
高齢化社会になって、認知症も問題も深刻になってきました。
認知症にならないように努力することは大切ですが、認知症になったからといって、それですべてが決して終わりではないのだと、この本を読んで学ばされました。
この世は、苦の世界、娑婆です。
そこで生きるには何が起きるか分からない、そう思って、認知症にならない努力とと共に、認知症になってもその人らしく生きられることを学んだのでした。
なるほど娑婆は忍耐試練なのです。
しかし、娑婆の中なればこその喜びや感動もあるものなのです。
心の琴線に触れることはたくさんあるのです。
だから堪えられるのだと思うのです。
横田南嶺