生きようとして
辛く苦しい時もある
しかし六十兆ある体の細胞は
みな 生きようとしている
生かそうと絶えることなく働いている
それが真実
今 そんな素晴らしい命を
こうして生きてる
という言葉、良い言葉だなと思います。
と思いますものの、これはもともとは私の言葉だったようなのです。
この言葉を寺の指示板に書きたいので、許可を求める依頼が円覚寺にあったそうなのです。
この良い言葉のもとが、円覚寺の拝観券の裏に書いてある言葉だったというのです。
もとになっている拝観券の裏には
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禅のこころ
総力をあげて
長い人生で時には死にたいと思うほど
辛く苦しいときもあると思います。
そんな時に、あなたの足は死のうと
していますか?
ちゃんと大地を踏みしめています。
手も死のうとはしていない。
内蔵も一生懸命に消化しようとして
いるし、目も同じです。
六十兆ある私たちの体の細胞は
みな生きようとしている、
それが真実です。
「もう死んでしまおう」と思っても
体の中では、内蔵などがいのちを
生かそうと絶えることなく働いている、
その働きこそ仏様なのです。
そんな素晴らしいいのちを
今、こうして生きているのです。
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と書かれています。
この言葉を少し短くしたものだそうなのです。
拝観券については思い入れがあります。
管長に就任した頃、境内には拝観券が捨てられていることが多くありました。
捨てられるとただのゴミでしかありません。
掃除のたびに、ゴミとして捨てるしかありませんでした。
捨てられないようにどうしたらいいか考えました。
「拝観券を捨てないでください」と張り紙をするのも無粋であります。
そこで、捨てられないような拝観券を作ろう、持って帰りたくなるような拝観券を作ろうと思ったのでした。
いろんな方に意見を求めて、まずカラー印刷にし、写真も四季それぞれで変わるようにし、券の裏側には短い法話を書くようにしました。
季節毎に写真が変わり、同じ季節でも何種類も作っておくようにしました。
その効果か、境内に拝観券が捨てられていることは、随分と減りました。
こういうことでも拝観の方の増加につながればと思って行ったのですが、結局のところ、拝観者は年々微減の傾向をたどり、ついに昨年はコロナの影響で大幅減となりました。
拝観の方の数にこだわるのは、拝観が只今の円覚寺を経済的に支える中心となっているからなのです。
禅寺ですから、そんなにお金にこだわる必要はないと思われるでしょうが、実際のところ、これだけの建物や境内があり、それにたくさんの文化財を持っていると、その維持管理だけでも、実に頭の痛いものです。
お参りになる方からご覧になると、いつもと変わらぬ寺の景色と思われるでしょうが、変わらぬように維持するには、苦労がいります。
そこで拝観に力を入れざるを得ないのであります。
その一助にと思って行った拝観券の改革でしたが、ゴミを減らすのみの効果に止まりました。
どなたからも、拝観券について、感想を承ることも無い状態でしたので、このたびのように、拝観券の裏の法話をご覧になって、それをお寺の掲示板に使いたいと言われますと、やっと日の目を見た思いなのであります。
それにしても、表記の言葉は、たしかに良い言葉なのですが、このような言葉を掲示板に書くということは、今の世相を暗示しているものかと思います。
ちょうど毎日新聞の二月四日の朝刊に、「くらしの明日 私の社会保障論」というコラム記事があって、東レ経営研究所特別研究員の渥美由喜先生が書かれていました。
題は、「横に手を差し伸べる」です。
冒頭に、次のような文章がありました。
「自殺大国と言われて久しい。
人口10万人当たりの自殺者数で国際比較すると、2016年の日本は8.5人と世界保健機関(WHO) 平均値を大きく上回る。
危機感を持った国は対策を講じ、一昨年の自殺者数は1978年以降、最低水準まで下がった。
しかしながら、コロナ禍で1年ぶりに増勢に転じた20年後半の自殺者数は6年前の水準に戻る勢いだ」
というのです。
こういう数字から何を読みとるかは難しいことですが、考えさせられる話であります。
そして、
「日本は新型コロナウイルスによる累積死亡者数は低水準だが、それを上回る自殺者が毎月発生している」
というのです。
その
「背景には、コロナによる失業・収入減、交流が減ったことによる社会的孤立、先行き不透明な閉塞感等が考えられる」
というのですから、やはりコロナの影響というのは大きなものがあります。
さて、そのような状況に対して渥美先生は、
「対策の一つは、多面性を持つこと」と指摘されています。
渥美先生ご自身が「かつて私は職場で、ひどいパワハラを受けた。
仮に職業人の側面が100%だったら、心が折れてメンタル不全に陥っただろう。
家族の声援、ボランティアで続けてきた子ども会を楽しみに待ってくれていた子どもたちの存在……。
家庭人・地域人としての側面に支えられた」
と書かれているのです。
仕事一筋というのは、聞こえがいいかもしれませんが、それがダメになってしまうと、行き場がなくなってしまうのでしょう。
いろんな人に支えられていることに気がつけば、頑張ることができるでしょう。
そして、何よりも実は私自身が私を支えているのです。
私の手も、足も、心臓も、内臓も、五臓六腑総掛かりで、私を支え続けてくれているのです。
呼吸にしてもそうです。
一時も絶え間なく、呼吸できるように働きづめの働いてくれているのです。
そんな有り難さに気がつく坐禅でありたいと思います。
横田南嶺