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臨済宗大本山 円覚寺

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2021.01.30
今日の言葉

人間らしい人間として

毎日新聞の夕刊に連載されている、法政大学総長の田中優子先生のコラム記事『江戸から見ると』は、いつも楽しみに拝読しているものです。

二十七日の夕刊には、

「女だろ!」

という題で書かれていました。

男性の私には、ドキッとする様な言葉です。

男がしっかりしていないということかなと思ってしまいます。

記事を読みますと、まず最初に今年の箱根駅伝のことが書かれていました。

私は駅伝を見ていなかったのですが、なんでも見事な逆転優勝があったそうです。

その後、それについて田中先生に取材の申し込みがあったそうなのです。

なんでも、逆転優勝した選手を励ますために、監督が発した「男だろう!」という言葉が、注目を集めているらしいとのことなのです。

田中先生は、

「しかし、「男だろ!」と叱咤激励されて本当に効果が出るのかどうか、男でない私にはわからない」と書かれています。

そこで、田中先生は何人かの男性に聞いて分かったことがあるというのです。

「ここでいう「男」とは、女性に対する男性という意味ではなく、かつて「男になる」が元服を意味したように「大人である」ことだ」

というのであります。

そこで、「男」とはやる気に満ちた立派な男性のことを思うらしいと書かれています。

田中先生は、それは具体的にどういうことかというと、

「自分を律することができ、自分なりの考えと役割をもち、責任を果たし、人を導くことのできる立派な人間のこと」

だというのであります。

そんな人間を江戸時代では「君子」と呼んでいたのです。

「君子は他者をおもんぱかる仁(愛情)があり、人たる道を追求することに怠りなく、自分を謙虚に顧みる」というのです。

「君子」を女性にあてはめると「淑女」で、上品で教養のある女性を指すのです。

田中先生は、

「今や「人として立派」といえるモデルを失い、男性は揺らいでいるようだ」と厳しい指摘をされています。

そこで、「女性だけでも、あこがれる人物像を多様に生み出し、「女だろ!」と言われてしゃんとなるようにしようではないか」と結んでおられます。

これは、男性もおちおちしていられないと思いました。

「男だろ」という言葉で思い起こすのは、禅の語録では、よく用いられる「大丈夫ならば」や、「この漢ならば」という表現であります。

大丈夫は、入矢義高先生の『禅語辞典』を見ますと、

『孟子』の

「富貴も淫すること能わず、貧賎も移すこと能わず、威武も屈する能わざる、此れをこれ大丈夫と謂う」(『孟子』際文公下〉。

という事が参照されています。

富や高位によって堕落することなく、貧賤によって志を変えることもなく、権威や武力にも屈することがない、このような男を大丈夫というのです。

『臨済録』には

「道流(どうる)、汝、若し如法(にょほう)ならんと欲得(ほっ)すれば、直に須らく是れ大丈夫児にして始めて得(よ)し。若し萎萎隨隨地(いいずいじ)ならば、即ち、得(よ)からず」

というように用いられています。

岩波文庫の入矢義高先生の訳を参照しますと、

「諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、ますらおの気概がなくてはならぬ。人のいいなりでぐずでは駄目だ」

となっています。

衣川賢次先生は、

「諸君!きみたちがもしまっとうでありたいと思うならば、大丈夫の漢の気概がなくてはならぬ。おめおめと人の言いなりになるようではいけない」

と訳されています。

「大丈夫児」を「志気堅固な男子」と説明されています。

禅の語録の世界では、どうしても男性中心の世界なので、こういう表現になったのかと思います。

しかし、今や男女の性差などは重要ではありません。

近年は、円覚寺の居士林でも熱心に独参をするのは男性よりも女性の方でありました。

もっとも只今はお休みにしていますが、コロナ禍の前には、女性の方が熱心に参禅していたのでした。

「ますらおの気概」は過去の話であります。

それより、男性だ、女性だという性差よりも、まっとうな人間という意味で考えたいと思います。

詩人の坂村真民先生は、

「私が詩を作るのは、人間らしい人間として生きたいからだ」と仰っています。

そんな事を考えていると、坂村真民記念館館長の西澤孝一先生から、井上洋治神父創設「風の家」の機関誌「風(プネウマ)」を送っていただきました。

井上洋治神父のことを真民先生は、敬愛されていました。

私もそんなことから、井上洋治先生のご著者を読んだことがあります。

その井上神父がお亡くなりになった後も活動が続いているのです。

その機関誌の特集が、「拡がりゆく井上洋治神父の宗教世界」となっていて、西澤館長が「坂村真民のまなざし「井上洋治神父から受け継いだものー」という題で、書かれているのです。

ちょうど只今、二月十四日までなのですが、坂村真民記念館では、「坂村真民のまなざし~坂村真民がみつめていたもの~」という企画展が行われています。

西澤館長のご指摘では、

「坂村真民の詩に、「まなざし」という言葉が初めて出てくるのは、七八歳の時に作った「まなざし」という詩です。

これは、井上洋治神父の著作「余白の旅」と「イエスのまなざし」を読み、そこから出てくる「イエスのまなざし」に深く共鳴し、「まなざし」という言葉に強く魅かれたのが大きく影響しています」と

いうことなのです。

真民先生は、仏教を学び、禅を修め、更に一遍上人を敬慕し、マザーテレサやアッシジの聖フランシスコを尊敬しておられます。

宗教の垣根などは問題がないのです。

それはどうしてかというと、このたびの機関誌「風」に西澤館長が書かれている文章の中に、真民先生の「思索ノート」の引用があって、

「シャカにもキリストにも、あまりとらわれるな、無宗派でよい、無教会でよい。一番大切なことは人間としてどうあらねばならぬかということだ。信仰。わたしが最後まで守り通そうとする信仰は人間が人間を愛することだ」

ということです。

男だの、女だのに関わらず、学歴や地位などにも関わらず、どんな宗教かにも関わらず、人間としてどう生きるか、これを問うのであります。

臨済禅師は、真人という言葉を用いて説かれています。

人間らしい人間とは、如何なる地位、名誉、学歴、男女などに染まらずに、人間を愛する心を持っていることであります。

 
横田南嶺

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