只祈る
今年の偈は、やはり新型コロナウイルスの収束を祈るという意味の詩であります。
旧歳早春、老師を送り
今年元旦、朝曦に対す
只祈るは、疫癘(えきれい)すみやかに退散し、
和暢恵風、満地に吹かんことを。
という偈であります。
およその意味はというと
昨年の早春に前管長の老師をお見送りし
今年の元旦には今朝日に向かっている。
ただ祈ることは、今のウイルスが早く退散して
穏やかな春風が、大地いっぱいに吹くように。
といったところであります。
和暢というのは、「わちょう」と読んで、意味は、のどかなことです。
恵風は「けいふう」と読んで、意味は、恵みの風。
万物を生長させる暖かい風のことであり春風を表します。
「天朗気清、恵風和暢」という言葉があります。
「天は朗らかに気は清みて恵風和暢たり」と読み、王羲之の『蘭亭序』にあります。
恵風は更に「風のように広く行き渡る君主の恵み」を表します。
「恵風和暢」を「和暢恵風」としているのは、平仄の関係です。
『中外日報』という宗教専門紙の新年号には、各派管長の年頭の思いが記されています。
「新しい年を迎えて」と題して、それぞれの管長が思いを述べています。
臨済宗からは、妙心寺派、黄檗宗、南禅寺派のそれぞれの管長と私が短い文章を載せています。
妙心寺の小倉宗俊管長は、「おかげさまの心」をと題して、妙心寺で大切にしている「おかげさまの心」を説かれています。
「このような混迷の世の中であればあるほど牛の歩みの如く自己の足元を見つめ一歩一歩着実に進むことが大切であります。
その時、常に「おかげさまの心」を持って歩んでいただき爽やかな風を起こし、周りの人々の心が少しでも和やかになってもらえれば、こんな有り難いことはございません」
とお書きくださっています。
まさしく、その通りであります。
円覚寺の先代管長も、常に「ご縁とおかげ」と説かれていました。
黄檗宗の近藤博道管長は、「穏やかな一年を願う」と題して、
「近年少子化や核家族化で寺離れが進行する中、そこへコロナ禍が加わり、従来の法要がやりにくくなって来ております。
コロナ問題を契機に、従来の仏事行事に頼らない安全且つ安心な仏事仕様を検証し、対応して行くことが肝要かと存じます」
と指摘して、
「本年はコロナ禍も終息し、穏やかな一年であることを切に願っております」
と示されています。
南禅寺の田中寛洲管長は、「望む道心ある若者」と題して、近年真剣に実参実究しようという若者が激減していることを憂慮され、
「新年に当たり、本当の道心をもった若者たちの出現と、禅界の興隆を念願して止みません」
というお示しであります。
私はというと、「新たな活路を見いだす」と題して書きました。
今までは、このような紙面に年頭所感を書くことなど遠慮していましたが、このような時なればこそと思って今回は一文を書きました。
いち早いコロナ禍の終息を願いますものの、まだ先行きが見えないことを述べて、こうした時こそ足元を見つめて歩むことの大切さを書きました。
そして更に
「仏陀の教え、禅の道は、幾多の時代の変遷を通り抜けて、今日まで脈々と伝わってきている」ことを延べ、
殊に禅は、遠く唐代においては破仏を乗り越えて禅僧たちが活躍してきていること、近くは明治の廃仏にあっても、当山の釈宗演老師は海外の布教へと歩を進められたことに言及しました。
そこで、今の困難な状況も新たな活路を見出す転機と受けとめたいという思いを述べました。
更に、古来「法は人によって尊し」といいますので、困難にめげぬ人材を打出すべく、伝統の修行を基礎から学んでゆきたいと願いを書きました。
最後に
「世の苦悩が深いほど、私達の願いも一層強く持ってゆかねばならないと自ら言い聞かせている」と文章を結びました。
今年はもう一度基礎から修行を見直し、やり直して、そこから活路を見いだしたいと思っています。
そうして明るい未来が開かれ、穏やかな春風の吹きわたることを、ただ祈っています。
横田南嶺