不寛容の時代に
その中に、
「コロナ禍における不寛容の時代に、仏教、寺、僧侶の果たすべき役割とは」
というのがございました。
これは、大きなテーマで、難しいものです。
小池さんは、コロナ禍によって生み出されたものの一つに不寛容があると指摘されました。
たしかに感染者を差別したり、その家族までもたいへんな思いをするということがありました。
引っ越しせざるを得なくなるような話も聞きました。
他府県からの来た車に乱暴するようなこともありました。自粛警察などもございました。
コロナ禍によってもたらされた分断、差別、不寛容、これに対して寛容を貴ぶ仏教は、どのように対応していったらいいのかという質問でした。
たしかに、仏教は寛容な教えであります。
異なる宗教、異なる考え方でも、排斥するようなことはしません。
受け容れる度量は大きなものがあります。
しかし、そうかといって、不寛容はいけない、仏教こそが寛容の教えだ、今こそ世の中に仏教の考えを弘めようと思ってしまうと、それもまた問題ではないかと話をしたのでした。
元来お釈迦様の教えは、この世の中を何とかしようということから起こったものではありません。
この世の中で生きづらい、この世で生きることは苦であるという思いを抱く者が、その苦しみを脱する為の道を示したものです。
後には、社会運動に発展してゆくものもありましたが、元来はこの世の苦悩を如何に脱するかという教えです。
不寛容はいけない、寛容な仏教こそ大事だと考えると、今度は「寛容」と「不寛容」という新たな分断、差別を生み出してしまい、不寛容を攻撃してしまうことにもなりかねません。
それは仏教の精神ではありません。
尊敬するあるカトリックの方から教わったことがあります。
私達がこの世においてなすべきことは、ふたつのことだと。
「それは知ることと、愛することだ」というのでした。
これは仏教でとく、「智慧と慈悲」に通じると思いました。
如何にこの世は、不寛容であるか、どうしてこのような不寛容を生み出したのかを知ることなのです。
不寛容はいけないと言いながらも、私自身が、何かを排除しようとしていないかというと、決してそんなことはないと言い切れないのです。
事実ウイルスを除去しようとしています。
心の中で、人を差別していないか、遠ざけようとしていないかと省みると、思い当たるものです。
不寛容は社会の現象であるとみるのではなく、私の心にもあると知ることです。
この世には、差別、不寛容は避けられないと知ることです。
そしてどうしてそのような不寛容が生み出されたのかを知ることです。
そんな話をしますと、小池さんが、最近読まれたという、雨宮処凛さんとい方の著書『この国の不寛容の果てに』の内容について語ってくれました。
以下、最近の小池さんのYouTube法話の概要覧にある言葉をそのまま紹介させていただきます。
「向谷地生良さんは相模原事件(障害者殺傷事件)が起こった直後にあるニュースを思い出されたそうです。
マイクロソフトが開発したAIをインターネットに繋ぎ、ディープラーニングをして、ネット上に溢れる負の情報をAIが取り込んだ場合、AIは、ユダヤ人のホロコーストを否定したり、ヒトラーを礼賛しはじめたことで、これは危険だということになり、開発がストップしたというニュースでした。
向谷地生良さんは相模原事件(障害者殺傷事件)を知った時に、植松被告がこのニュースのAIと同じ状況だったんでは無いかと感じたそうです。
植松被告が主張していた内容には、ネットに溢れている差別的発言、攻撃的な言葉が多く見られたからです。
AIも同じく差別や攻撃的な情報を多く取り入れ、それを排出していた。
これは私達のとりまく環境でも同じで、インターネットからの様々な情報を取り入れることで知らず知らずのうちに自分の思考が作られていきます。
そして偏った情報ばかり受け取ってしまうこともあり、そういったところが今のネット社会の悪い側面ではないかと感じます。
テレビや新聞と違い、ネットから得る情報は自分が欲するものばかりになってしまい、偏ってしまいがちになります。
相模原事件(障害者殺傷事件)は、こういったネットによる情報の影響が、植松被告を障害者に対して生産性が無いなどという論理が構築されていった果ての事件では無いかと向谷地生良さんはおっしゃっています」
ということを話してくれたのでした。
これが知ることなのです。
あの事件を起こした者は、けしからん、不寛容はよくないというのではなく、なぜあのような考えに至ったか、その原因を知ることです。
私達にできることは、不寛容を攻撃することではなく、知ること、そして知ることは愛することに繋がるのだと話をしたのでした。
正しい智慧をもって見る時にこそ、不寛容は止み、慈悲が生まれるのです。
やはり仏教は「智慧と慈悲」を説き、実践する教えなのであります。
横田南嶺