信
その中に、「盲信を棄てる」という章があります。
仏教という教えの性質をよく表しています。
その中には、
「ほとんどすべての宗教は、信仰 – それもむしろ盲信といえるもの – に立脚している。
しかし仏教で強調されているのは、「見ること」、知ること、理解することであり、信心あるいは信仰ではない」
という言葉があります。
仏教で重んじるのは智慧なのであります。
その智慧から慈悲が出てくるのであって、「智慧と慈悲」の教えであります。
更に
「仏教経典には、一般に「信仰」あるいは「信心」と訳されるサッダー(サンスクリット語ではシュラッダー)という用語がある。
しかしサッダーはいわゆる「信心」ではなく、むしろ確信から生まれる「信頼」というべきものである」
と説明されています。
仏教の「信」を考えると、単に信じるというよりも、確信という言葉が近いのではないかと私は思っていますので、この説には賛同します。
その後に、
「四世紀の偉大な仏教哲学者アサンガによれば、サッダーには、
1、真理に対する全幅の、そして確固たる確信
2,よい資質に対する本心からの喜び
3,目標達成に対する熱望と意志
という三つの側面がある」
という解説があります。
私も「信」の説明をするときには、『成唯識論』にある、信の三要素、「信忍、信楽、信欲」を用いています。
信忍とは、知的に理解することであります。
信楽とは、仏・法・僧の三宝が純粋に清らかな徳を有していることに感銘を受けて憧れることで、情的な信、感動であります。
それから信欲は、仏教に説かれるあらゆる修行が、真に本来の自己の実現をもたらす力のあることを思って、その修行に入っていこうと意を固めていくことです。
こうして、信は知的な信に始まり、情的な信へと進み、ついに意志的な信へと達するのです。(竹村牧男『『成唯識論』を読む』より)
そこを私なりに、
理解→感動→意欲という要素であると解釈しています。
そのことによって、確信が得られるのです。
理解→感動→意欲→確信なのです。
自心こそが素晴らしい仏そのものであるとよく理解して、自己の心が仏であるとは何と素晴らしいことではないかと感動し、それならば自分も修行してみようと意欲を起こして、なるほどその通りであったと確信するというのが、「信」の内容であると考えています。
実に『臨済録』でも「信」については、たびたび強調されています。
よく知られたところでは、
「病甚れの処にか在る。病、不自信の処に在り」
という言葉です。
「このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにある。病因は自らを信じ切れぬ点にあるのだ」(岩波文庫『臨済録』より)
「爾若し自信不及ならば、即便忙忙地にして、一切の境に徇って転じ、他の万境に回換せられて自由を得ず」
と続いていて、
「もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない」
ということになってしまうのです。
私たちの心には、仏様に等しい素晴らしい智慧が本来具わっているとよく理解して、それは素晴らしいと感動して、それなら自分も修行してみようと意欲を起こして、やってみてなるほどその通りであったと確信する、これが『臨済録』にも説かれている「信」の内容であると受けとめています。
この点は、仏陀の説かれた根本精神が『臨済録』にも受け継がれていると思っています。
訳の分からないことをとにかく信じろ、信じれば救われるという教えとは異なるのであります。
横田南嶺