共感の難しさ
十二月八日には、「喜び分かち合う言葉は?」という題でした。
香山先生が、ある雑誌のインタビューを受けて、
「精神科医としていちばん苦労することはなんですか?やっぱり誰かの悩みや苦しみに共感することですか?」
と尋ねられたそうです。
香山先生はそのとき、「そうですね……」と答えながらも、「いちばんむずかしいのはなんだろうか」と考え続けたというのです。
香山先生は、悩みへの共感は、それほど苦労しないそうです。
「会社をリストラされてつらい」といった話を聞くと、自然に「それはたいへんでしょう」と言葉が出てきて、その人の気持ちにも寄り添えると言います。
しかし、香山先生が難しいというのは、うれしいことに対する共感だそうです。
「うれしいことやおめでたいことを、自分のことのように喜んだり、家族のようにほめてあげたりするのはむずかしい」
と書かれていました。
とくに疲れているときなどに、患者さんが「アルバイトでほめられたんですよ」と話してくれても、「そうですか」と聞き流してしまうと言います。
「本当は、にっこり笑って「やりましたね」とうなずきたい」と書かれています。
最後に香山先生は、
「誰かの喜びを、わがことのように、ともに喜ぶ。そのときにいちばんふさわしい言葉はなんだろう。
「良かった」
「おめでとう」
「すごいですね」
などいろいろあるが、もっとぴったりするひとことはないか、とその後も考えている」
と結んでいました。
亡くなった先代の足立老師がよく仰っていました。
「坊さんというのは、三つの言葉だけでいいのだ」ということです。
檀家さんなり、誰かが寺に訪ねてきたら、まず相手の話をよく聞く、そうして途中で、「ああ、そう」「ああ、そう」と相槌を打ちながらとことん聞く。
そして全部話終わった時に、うれしい話だったなら、「よかったね」と言う。
悲しい、辛い話だったら、「困ったね」という。
この「ああ、そう」と「よかったね」と「困ったね」の三つの言葉だけでいい。
これを三語族というと話してくださっていました。
決して、途中で口を挟んだり、ああしたらいい、こうすればよかったなどと言ってはいけないと説かれていました。
なかなか簡単なようで難しいことであります。
また『盤珪禅師語録』に次のような逸話がございます。
「賀辞には必ず愁声あり。弔辞には必ず歓声あり。人情一の如し。
我、盤珪和尚の音声を聞くに、利衰毀誉、尊卑老稚において其音異ならず。
和平にして戻らず。蓋し凡識を脱離す」
という難しい文章ですが、盤珪禅師について、ある盲人の方が言われたことです。
世間の人は必ず、お祝いの言葉を述べる時には、心のどこかに愁いの思いが隠れている。
お悔やみの言葉を述べる時には、心のどこかに、「自分でなくてよかった」という喜びも思いが隠れている。
だいだい人間の思いというのはそのようなものだ。
自分は、盤珪禅師の声を聞いていると、どんな人に対しても、その人がどんな状況であろうとも、けっして声が変わることはなかったというのです。
相手が悲しい時には、こちらも心から悲しむ、相手が喜んでいる時には、心から喜ぶというのは、そう簡単ではありません。
無我でなけれは無理であります。仏心は無我であります。
盤珪禅師は、無我でいらっしゃったのだとよく分かります。
とりわけ私たちは、相手の事を一緒に喜んであげるというのが難しいのです。
そうかといって、無理することはありません。
無理に喜ぼうとしても無理なものは無理。
人間の心というのは、そういうものなのだと冷静に知ることであります。
そう簡単に共感できない心の闇を抱えて生きているのだと、知っておくことです。
盤珪禅師ほどの方ならばいざ知らず、お互い誰しもそうなのです。
ですから、そうならなくても自分を責めることも他人を責めることもいらないのです。
横田南嶺