何がきれいなのか
黒住宗忠という方は、実に偉大なる宗教家であり、私が尊敬する人のひとりであります。
坂村真民先生も、黒住宗忠を学んでいたことが、詩記からも分かっています。
特に真民先生が毎朝朝日を拝んで、その光を吸っていたというのは、黒住宗忠が行った、御陽気を吸うということから来ていると思われます。
黒住教の教えの要は、毎朝お日様を拝んでその光を吸うことにあります。
「見聞きする物事を一つひとつ味わい、常に有り難いことと嬉しいことに心を向けて、しっかりとご陽気をいただいて下腹に納め、天地とともに“気”を養い、おもしろく、楽しく、心をたるませないようにつとめることが大切です」
という教えが説かれています。
黒住教の本部にお参りしたこともあって、黒住教の当代の教主ともご縁をいただいています。
そんなご縁で、毎月黒住教の本部からも冊子を送っていただき、また黒住教の教職にある方からも、お手紙をいただいています。
その方からいただいた便りに、五代教主の方の言葉が載っていました。
その五代教主の方が斎主をつとめた時に、随行の方が装束のままスリッパをそろえて、そのまま手を洗わずに祭典に出られたそうです。
五代教主は、手を洗えと注意しようかと思ったそうです。
お祓いを称えながら、そのようなことに気を煩わせている自分の手と、汚れているかもしれないスリッパをそろえた随行の方の手と、どちらがきれいなのか、神さまに叱られたような気がしたと書かれていました。
「要は心の問題であり、それが祓いの本義でもある」
というのです。
更に「爪まで磨いた白魚のような指でタバコを吸う娘さんの手と、土にまみれて葉タバコを栽培する農家の娘さんの手と、どちらが本当は美しいのか」
と考えてみたというのであります。
そして、「神さまの御心にかなう、神の子として真実の働きをしている者こそが、真実の美をもつものである」と書かれていました。
真の美とは何かを考えさせられます。
ただうわべだけを飾ってもの、本当の美ではないのでしょう。
きれいな法衣をまとうことが必ずしも美に非ず、木綿の衣を着て、薄汚れたように見えても、一所懸命に修行している雲水の姿というのは美しいものであります。
坂村真民先生の詩を思い起こしました。
美しい眺め
あたまをきれいに剃った
まだ十六ぐらいの雲水さんが
袖なしをつっかけただけの姿で
お経を一心に唱えながら
夕暮れの鐘を撞いている
まだお経をはっきり覚えていないのか
片手に経本を持ちながら
たからかにお経を唱えている
なんという無心の美しい姿であろう
掃き清められた広い庭に
はらはらと松の葉が落ちる
そのかすかな音さえ
しみるような夕暮れ
わたしはしみじみと
身も心も洗われてゆく思いがした
本日の晩で、臘八の大摂心も終わります。
八日の未明まで坐り抜くのであります。
頭も剃らず、ヒゲも剃らずに坐り抜く雲水の姿というものは、尊く美しいものです。
横田南嶺