刻苦光明
近年ずっと臘八の間は、仏光国師語録の中の告香普説を読んで、御開山の修行時代の話を学んでいました。
今年は、久しぶりに『禅関策進』を学んでいます。
『禅関策進』を、なぜ私達が大事にしているかといえば、それはひとえに白隠禅師の逸話によるものであります。
その詳細が、只今講本として用いているものの末尾にある東嶺和尚後序に詳しく説かれています。
白隠禅師が、幼少の頃から、泥犂の恐ろしさを聞いて、解脱を求めるようになったと説かれています。
泥犂は、「ないり」と読んで、地獄のことであります。
十歳の頃に、近くのお寺で地獄絵の説法を聞いてから地獄を怖がったというのです。
この地獄の苦しみから如何に逃れることができるかというのが、白隠禅師の出家の動機であります。
はじめ天神様を熱心に信仰し、それから更に観音様を信仰し、観音様を念ずれば、火に入っても焼けないとお経に説かれているので、観音様を念じて焼けた火箸を股に当てたのでした。
当然大やけどをしました。
これは在家でいるからいけないので、出家して修行しなければならないと思った白隠禅師は、十五歳で出家されます。
熱心に修行に励んでいたのですが、十九歳の頃に、唐代の禅僧巌頭禅師が、賊に襲われて亡くなったという話を聞いて愕然としました。
現代の苦しみすら免れることができないようでは、死後の苦しみである地獄からどうして逃れることができようかと、仏法はでたらめであると失望落胆したのでした。
ここのところが、「仏法虚誕」と表現されています。
「虚誕」とはいつわり、でたらめという意味、「誕」には、「誕生」というように生まれるという意味がありますが、いつわりという意味もあるのです。
そうして美濃の瑞雲寺に居た時に、書物の虫干しをしていて、そのおびただしい蔵書の中から、白隠禅師は、目を閉じて、諸仏に祈りを捧げ、どうか自分のこれから進む道をお示しくださいと、一冊の本を手にしました。
それが『禅関策進』でした。
パッと開いてみると、慈明和尚が、修行時代に夜に坐禅して眠くなると、錐で股をさして眠気を払って坐禅をしたという話が目に入りました。
白隠禅師は、これだと思って、その時の慈明和尚の言葉、
「古人刻苦光明必ず盛大なり」
という言葉を毎日何度も称えては修行に励まれたという話です。
それ以来白隠禅師は、この『禅関策進』を常に座右に置いて手放さなかったというのです。
「刻」には、骨身を削るような苦しみをするという意味があります。
骨身を削るような苦労をしてこそ、光り輝くものが得られるという意味でしょう。
それをもう少し深く読みこんで、そのような苦労こそが光り輝くものだと受けとめています。
禅堂に坐っていると、やがて光が現れるというよりも、坐る姿そのものが光り輝いているのです。
誰しもそうです。
禅堂で坐ることなどはむしろたやすいことで、様々な人生の苦労をしながら、その苦労の体験こそが光り輝くのであります。
「刻苦」して「光明」が現れるというよりも、「刻苦」こそがそのまま「光明」なのです。
そこで思い出すのは、坂村真民先生の「鈍刀」の詩です。
鈍刀を磨く
鈍刀をいくら磨いても
無駄なことだというが
何もそんなことばに
耳を貸す必要はない
せっせと磨くのだ
刀は光らないかも知れないが
磨く本人が変わってくる
つまり刀がすまぬすまぬと言いながら
磨く本人を
光るものにしてくれるのだ
そこが甚深微妙の世界だ
だからせっせと磨くのだ
こんな話を毎年臘八の大摂心のたび毎に行っています。
毎年行ってもう二十年以上になるのですが、毎年話すたび毎に自分自身の身が正される思いがしています。
横田南嶺