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臨済宗大本山 円覚寺

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2020.12.02
今日の言葉

その愚は及ぶべからず

『論語』の公冶長第五の二十一にあることばです。

「子の曰わく、甯武子(ねいぶし)、邦(くに)に道あれば則ち知、邦に道なければ則ち愚。

其の知は及ぶべきなり、其の愚は及ぶべからざるなり」

というものです。

後半の句は、『禅林句集』にも

「其の知や及ぶべし、其の愚や及ぶべからず」として掲載されています。

岩波文庫の金谷治先生の訳によれば、

「先生が言われた、

「甯武子(ねいぶし)は国に道のあるときには智者で、国に道のないときは愚かであった。

その智者ぶりはまねできるが、その愚かぶりはまねできない」

ということです。

宇野哲人先生の解説によると、

「甯武子は衛の大夫ですが、文公の御世にあって邦なかなか盛んであったのですが、甯武子は何事も特別なことはいたしておりません。

ところが、その後成公の御世になってから非常に国が乱れました時に、武子は非常にその間に骨を折りまして、そして随分困難なことがあったがとうとううまくまとめてしまった。

そういう困難な時はわざわざそうさわがなくても、そうっとしておけばその方が得であるのに、人はそういう面倒な時にはさわらぬ神にたたりなしでいるのが普通であるのに、甯武子は人におかしな男だといわれながらもかまわず一所懸命やった。

まことに愚というべきでしょう。

ですからその知は誰でもできるが、あの愚は到底普通の人にはできないことである」

ということであります。

穂積重遠先生の解釈は、

「孔子様がおっしゃるよう、『甯武子は、国が治まっているときは表に立って腕をふるい、あっぱれ智慧者だといわれるが、国が乱れると蔭にまわって損な役廻りを買い、利害を知らぬ馬鹿者のように見える。その智慧者たる所はまねができるが、その馬鹿者たる所は及びもつかない』」

として、「ここで「愚」というのは、作りあほうをして一身の安らぎをはかるという意味ではない」と解説されています。

この「愚」というのは、単なるおろかものではないようです。

禅でいう「愚」もまた、単なるおろかものではありません。

単に知を振りかざすよりも、もっと深いものであります。

松本紹圭さんのご依頼があって、ポッドキャストというテンプルモーニングラジオに出演させてもらいました。

松本さんとは、久しぶりのご縁であります。

久しぶりとは言っても、オンラインでの対談でしたので、直接お目にかかった訳ではありません。

最近は、宗教界も、動画の取り組みに力を入れているのですが、松本さんは更にその先を見通されて、ただいま映像や画像よりも、音に注目されているそうなのです。

そこで、ラジオを取り入れて、毎日どなたかをお招きしてトークをなさっています。

毎週月曜から金曜まで五回行っているのであります。

私の場合は、先日一日で五日分を収録させてもらったのであります。

松本さんは、いつお目にかかっても、その聡明なること、先見性には感服させられます。

映像の先に、音に注目されていると聞かされると、私のように只今動画に取り組んでいるのは愚か者に見えてしまいます。

聡明さも、とても大切なことでありますが、人の救いというのは、愚にあるのではないかと話ました。

そこでふとこの論語の言葉を思い起こしたのでした。

聡明さよりも、愚なることの尊さ、人はこの愚に返ってこそ救われるというのは、実は松本さんに対することというよりも、私自身への反省でもあります。

もっとも私の場合、もとより松本さんのように聡明でもなく、そのうえ、この頃は人の名前もよく失念して出てこない状態ですので、比べるべくもありませんが、これからはお互い、「愚」なることを目指しましょうと話したのでした。

対談の中では、松本さんから、禅語というのは、古い禅語ばかりで、新しい禅語は出てこないのかと聞かれました。

さすがに痛い所を突かれます。

ほんとうは、今の私たちが今の言葉で語って、それが禅語にならなければいけないのです。

それが私などは、いつも古い禅語を取り上げてその解説ばかりするからよくないのであります。

痛い所を突かれて反省しました。

対談の間も松本さんは終始ご自身の言葉で自信を持って、深みのあるよいお声で話をしてくれていました。

対する私はというと、つい、「実は禅語では……」と説明したりしてしまいます。

愚なること、そして自らの言葉で語ること、松本さんとの対談を通して、新たに学ばされました。

また対談が公開されることが決まればお知らせします。
 

横田南嶺

その愚は及ぶべからず

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