icon_arrow-r_01 icon_tryangle icon_search icon_tell icon_download icon_new-window icon_mail icon_p icon_facebook icon_twitter icon_instagram icon__youtube

臨済宗大本山 円覚寺

臨済宗大本山 円覚寺

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ 2025.06.15 更新
  • 法話会・坐禅会・
    写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • 円覚寺売店
  • お知らせ
  • Q&A
  • リンク

© 2019 ENGAKUJI
ALL RIGHTS RESERVED.

お問い合わせ

2020.11.21
今日の言葉

無念

新型コロナウイルスの感染症がまた拡大しつつあるようで、まだまだ油断できないことを改めて思い知らされます。

しかしながら、世の中は、依然として動いているようで、私のところにも来客が相次ぎ、依頼事も入るようになっています。

頼まれたことの一つに、熟年向けの雑誌の取材がありました。

「熟年」と聞いても、自分には関係がないと思っていました。

まだまだ「青年」のつもりでいるのです。

熟年生活を応援するという雑誌に出て欲しいと言われて、愕然としました。

そうか、自分も既に熟年に入るのかと思ったものの、とても熟しているとは言いがたく、今なお新たな事への挑戦に燃える青年であると、秘かに心の中では思っています。

更には、平素お世話になる春秋社の方がお見えになって、鈴木大拙先生の復刻本を頂戴しました。

大拙先生生誕百五十年で、『禅問答と悟り』、『禅による生活』、そして『金剛経の禅・禅への道』の三冊が復刊されたのでした。

『金剛経の禅』のなかに、「無念」という一章があります。

無念という言葉は、日常でもよく使います。

『広辞苑』で調べると、

第一には仏教語として、「妄念がないこと。無心であること」という意味が記されていて、

更にもうひとつ、「(正念を失って)口惜しく思うこと。不本意。残念」という意味もございます。

残念無念というのは、後者であります。

大拙先生の解説には、

「六祖の時代に、無念ということが強く主張せられた。六祖は「無念を宗となす」といっている」のだそうです。

「達摩時代には無念よりも、無心が使われていたようである。しかし無心も無念も同じ意味である」

ということだそうです。

そして、大拙先生は、

「この無心の無念が体得せられたときに、仏教はことごとくわかるのである」

とまで仰せになっています。

では具体的にどういう事なのか、大拙先生の解説に沿ってみてゆきましょう。

「無心または無念、または一念、これを正念ともいうのである。それでよく「正念相続」ということがある」

と説かれています。

「無念」というのは、何も思わないことではなくて、「一念」に通じ、「正念」であるのです。

その正念を相続する「正念相続」とはどういうことかというと、大拙先生は、

「絶対の現在そのものの働くところを踏みすべらないようにする」

というのです。

具体的には、「それは直線的に過去や未来が上がったり、下がったりすることでなしに、周辺に妨げられない一円相の中で、いたるところに中心を据えているという自覚である」

と少々難しい表現をなされていますが、過去のことや未来のことに気を止めないことです。

この無心無念を、「仏教のほうでは三昧である」と表現されています。

三昧とは、

岩波の『仏教辞典』には、「サンスクリット語・パーリ語samdhi に相当する音写。<三摩地(さんまじ)>とも音写する」と解説されていて、

「心を静めて一つの対象に集中し心を散らさず乱さぬ状態、あるいはその状態にいたる修練」だということです。

大拙先生も「三味というのは梵語の音訳で、その意味は正受である。

「正しく受ける」ということは、無念すなわち一念に、すなわち正念に住することである。

花を見れば花と見る。

山を見れば山と見る。

鴉が鳴けば鴉と聞く。

これが「正しく受ける」、三昧である。単なる感性的直覚でなくて、霊性的直覚に裏づけられているところのものである」

と説いてくださっています。

そしてそれは更に「よく人のいう「成りきる」ということ」だと示してくれています。

大拙先生は「「成りきる」、「そのものになる」ところでは、念が二つに分かれないで、一念すなわち無念である」と解説されています。

要するに過去を顧みずに、未来も思わずに、ただ今目の前のことに集中して余念を交えないことなのです。

無念は、「残念無念」でもなく、何も思わぬことでもなく、只今のことに集中して充実した状態であります。

『論語』に「憤りを発して食を忘れ、楽しみて以て憂いを忘れ、老いの将に至らんとするを知らざる」とあるように、一つのことに打ちこむうちに、自分の年齢も忘れしまうほどなのです。

そうするうちに気がついたら、「熟年」になっているのかもしれません。

ぼやぼや暮らして年を取ってしまって、「ああ残念」とならないように心したいものです。
 

横田南嶺

無念

前の記事
次の記事

カテゴリー

  • 僧堂提唱(37)
  • 坂村真民 詩(88)
  • 掲示板 (今月の詩)(31)
  • 今日の言葉(2110)
  • 今日の出来事(164)
臨済宗大本山 円覚寺

〒247-0062 鎌倉市山ノ内409  
TEL:0467-22-0478

  • 円覚寺について
  • 拝観案内・アクセス
  • 境内案内
  • 年間行事・法要
  • 管長のページ
    • 管長侍者日記
    • ビデオ法話
    • 回覧板 (おしらせ)
  • 法話会・坐禅会・写経会
  • 御朱印・御祈祷
  • お知らせ
  • リンク
  • 円覚寺売店
  • Q&A
  • お問い合わせ