著衣喫飯(じゃくえきっぱん)
そして、そのことに気がつけば、「日常のあらゆる営みが仏の心の現れである」ことに目覚めるのだと申し上げました。
たださえ訳の分からぬ禅問答、そんな話をしても、皆さまには何のお役にも立たぬであろうと、十分承知の上で敢えてお話しました。
若き日の臨済禅師が、師の黄檗禅師に「仏法の根本義」を問うと、問いも終わらないうちに棒でうたれてしまいました。それも三度も続きました。
圧迫面接どころではありません。
しかし、これは、「仏法とは」と聞こうとしている、あなた自身の心、その身体まるごと全体が、「仏法そのもの」の現れであることを、もっとも直接的に示したのであります。
役に立たぬことは、あらかじめお話もしておいたのですが、終わった後には、後悔が残りました。
方丈の中で聞いて下さった方には、ご遠方からお越し下さった方もいらっしゃいました。
またライブ配信で、多くの方がご視聴くださいました。
そんな熱心な皆さんには、随分がっかりさせてしまったことだろうなと、反省すること頻りでした。
ところが、意外にも感謝の言葉をいただくことがありました。
なんと、訳の分からぬ、そして役にも立たぬ話が良かったというのであります。
心こそが仏であり、その心は日常のあらゆる営みに現れているという馬祖禅師の教えは、臨済禅師に継承されてゆきました。
臨済禅師は、
「仏法は、何も特別な修行に手間ひまかけることではない。
ただ普段どおりに、大小便をすませ、着物を着てご飯を食べ、くたびれたら横になるだけのことだ。
こんなことを言うと愚か者は笑うだろうが、智者は解ってくれる」とまで仰せになっています。
たしかに、大小便を済ませ、着物を着てご飯を食べ、くたびれたら睡る、そんなことは当たり前ではないかと思ってしまいます。
そんなのが仏法なら、なにも苦労する必要もないではないかと思われるのも無理はありません。
それを臨済禅師は、「愚か者は笑う」と言われたのです。
しかし、「智者は解ってくれる」のです。
ある方から、その日曜説教を聞いたというお礼状をいただきました。
その方は、両親の介護をなさっているのです。
その方のご両親のことも、私はよく存じ上げています。
最近、おみ足も弱って、お目にかかることが無くなっていました。
なんでもできた親が、だんだんと何もできなくなってゆく姿を目の当たりにするのはお辛いことでありましょう。
しかし、それが現実です。
介護をなさりながらも、こんなに、ただ食べて寝ての暮らしだけで、何の意味があるのだろうかと思っていたというのです。
しかし、そのただ食べて寝るだけだという暮らしこそ、仏の心の現れなのだという、先日の話を聞いて、この今の両親の姿も仏の姿なのだと思えるようになったというのです。
これからは、仏さまのお世話をする気持ちで介護するのだと受けとめていただければ何よりです。
なんと、思いもかけずに、訳の分からぬ、何の役にも立たぬと思っていた禅問答が、今の暮らしに大きな力を与えることができたのでした。
真理は、どんな時代を越えても通じるものだと学ばせていただきました。
横田南嶺