釈宗演老師のこと
その記念に、宗演老師が、お師匠様にあたる今北洪川老師の『禅海一瀾』を講義された、『禅海一瀾講話』を岩波文庫から復刻したのでした。
この出版にも苦労したのでした。
大部の書物でありますし、今の御時勢、さすがの岩波書店も、容易には引き受けてくれなかったのでした。
いろいろ苦労してようやく出版してもらいました。
売れないであろうと思われた本だったのですが、なんと重版にもなったのでした。
この出版では、駒澤大学の小川隆先生が綿密な校正と註釈を付けてくださり、ご尽力をいただいたのでした。
二年前のことですが、懐かしい思いがします。
『禅海一瀾』というのは、今北洪川老師が、儒教と仏教とが一致するとの理念を示されたものです。
本書の中にも
「天と曰い、仏と曰い、性と曰い、明徳と曰い、菩提と曰い、至誠と曰い、真如と曰う。一実多名なり。其の物たるや、天地に先だちて生じ、古今に亘りて常に現在す」
とありますように、「一実多名」といって、真理は一つで、その名前がいろいろあるのだという立場であります。
儒教で「天」というのも、仏教で「仏」と言ったり、「真如」と言ったりするのも内容は同じだというのです。
しかしながら、洪川老師は、キリスト教までは同じだとは決して言われませんでした。
鈴木大拙先生が、その著『今北洪川』に、当時の仏教者がキリスト教を邪教としていたことに触れて、
キリスト教に対しては「洪川老師のごときも熱烈な反対者の一人であった」と書かれています。
そして「老師が「邪教」に対しての反駁は、いかなる動機ー意識的と無意識的たるとを問わず、かなりに激しいものがあった」と述べているのです。
それに対して、洪川老師のお弟子である宗演老師は、若くして慶應義塾に学び、管長になってからすぐにシカゴの万国宗教会議に出席されて、西欧の方々と交流するなどの体験から、キリスト教に対する理解は、洪川老師と全く異なるのであります。
本講話の中でも
「仏教では「仏」と云い、儒教ではこれを「天」と云い、或いは「明」と云うて居る。或いは外の教ではゴッドと云い、我物顔にして、色々の名を附けて居るだけの事である」
と講義されているのです。
驚くべきことは、洪川老師にとっては、「天、仏、性、明徳、菩提、至誠、真如」というようにすべて仏教や儒教の言葉で表現されたいたものが、宗演老師に至っては、キリスト教の「ゴッド」というのも同じだとされているのです。
そして、更に
「例えば仏教も耶蘇教も宗教として世に臨んだ所は変りが無い。
仏の慈悲心、耶蘇の博愛皆な同じである」
と断言されていて
「『観無量寿経』にある如く、「仏心とは大慈悲是」で一言に尽して居る〔諸仏心者大慈悲是〕。
また耶蘇教で、ゴッド、イズ、ラブ、ラブ、イズ、ゴッドというも同じ意味だ。宗教としての立場は同じである」
と述べられているのです。
明治三十五年七月にアメリカからラッセル夫人が円覚寺に滞在しています。
そして明くる年の三月にアメリカに帰るまでの間、宗演老師に参禅されているのですが、その折り宗演老師は毎夜ラッセル夫人から聖書についての講義を聴講されていらっしゃいます。
一山の管長が、アメリカの夫人に聖書を学んでいる姿は、何とも尊く思われるのです。
後に明治三十八年、四十七歳の宗演老師は、二度目の渡米で、セオドア・ルーズベルト大統領と会談されており、その折りには、
「仏教が欧米化し、耶蘇教が日本否東洋化せば世界の平和是に於てか始めて成らん」と宗演老師が述べられ、
それに対し、大統領もまた「大に欣ぶ」と記録されています。
宗演老師の学びを深めようとされる姿、異なる思想も受け容れようとなされた広いお心には、今もただ感服するばかりなのであります。
横田南嶺