自死の問題 – 其の二
私がお世話になった筑波大学というところは、私の在学時には、自殺が多いというので問題になっていました。
広大な武蔵野の平野に、突如近代設備の整った学園が現れたようなところでした。
一歩学外にでると、畑と原野ばかりです。
しかし、中にはきれいなコンクリートの校舎があり、宿舎も整えられ、食堂もあり、学内には無料のバスが常に周っていていつでも乗れるし、いかに設えたような人口の池に、アヒルが静かに泳いでいる様な環境でした。
ただ、生活感というのが希薄だったように感じました。
優秀な生徒さんが、そんなよく整えられた環境で身を投げたのでした。
はじめは驚きました。昨日まで同じ教室で学んでいたのに、次の日には亡くなっているのでした。
しかし、それがやがて驚かなくなるほどに、多くの学生が亡くなるということがありました。
あまりに生活感の無い人工的な環境では息詰まる思いがしたのでしょうか。
私は、その当時から、学業よりも白山道場に通って坐禅に精出していましたので、そんな空虚感に襲われることも無く過ごしていました。
ところが、そうして坐禅に打ち込んでいる最中に、とある本山の管長が自死されたという報道があって、驚いて椅子から転げ落ちた事を覚えています。
まさかという思いでした。
どうしてなのか、当時の高名な僧侶方に聞いてまわりました。
私の師匠の小池心叟老師は、一言「坐りが足らんかったのだ」と。
松原泰道先生は、「自死を止める立場にある方が、こうなっては残念です」と仰せになりました。
禅僧の中には、あからさまに批判される人も多かったように思います。
そんな中、あるお寺で、とある老師の提唱を聞いていた時に、その老師が、件の管長の自死に触れられて、
「いろんな人がいろんなことを言うのだろうけどな、
自ら死を選ぶほどの苦しみというのは、
その人でないと分からないものだよ。
他人がどうこう言うものではない。
こういうことはな、そっとしておいてあげることだ」
とのみ語られたのでした。
私は、この一言に感銘を受けました。
こういうことを言える老師がいる禅の世界はすばらしいと思いました。
そのような事を、五木寛之先生と対談していて思い出して語ったのでした。
佐々木閑先生は、律の専門家です。
律というのは、昔の僧達がどのような事を行えば戒律に背くのか詳しく書かれている膨大の書物です。
それをお調べになって、病の苦しみのために自死した阿羅漢がいて、お釈迦様に、あの弟子はどうなったかと聞くと、お釈迦様は、「涅槃に入った」と答えられた事例があるというのです。
殺生戒には当たらないという事なのです。
そういう綿密なご研究をもとにして、佐々木先生は現代の問題を論じてくださっています。
もちろんこと、佐々木先生も、「せっかく人として生まれて自分を向上させるチャンスがあるのに、それをみすみす逃すという点で、「もったいない行為」」であり、
「人は自殺などすべきではないし、他者の自殺を見過ごしにすべきでもない。この世から自殺の悲しみがなくなることを、常に願い続けねばならない」と仰せになっています。
自ら死を選ぶことのないようにお互い努力したいものです。
しかし、やむにやまれぬ事情から死を選んだ方を、罪を犯したかのように言うことは避けたいのであります。
横田南嶺