宝の蔵
ほかならぬこの心こそが仏であるというのです。
法常という僧は、馬祖に仏とはどのようなものでしょうかと問うて、馬祖が、「即心是仏」、ほかならぬ汝の心が仏であると示されて気がつきました。
実に端的な教えであります。
端的であり、明解すぎて却って納得しがたいところもあります。
馬祖と大珠慧海との問答がございます。
大珠が馬祖に参禅しました。
馬祖は、「どこから来たのか」と尋ねます。
大珠は、正直に「越州の大雲寺から参りました」と答えました。
馬祖は、「何を求めてここに来たのか」と問います。
大珠は「仏法を求て来ました」と答えます。
そこで馬祖は言いました、
「自らに素晴らしい宝の蔵があるのに、それをおいて走り回っていって何をしようとするのか。
私のところには、あなたに与えるものは何も無い」と。
そう言われてもまだ分からない大珠は、礼拝して更に問いました、
「一体私自身にある宝の蔵とはどのようなものでしょうか」と。
馬祖は、「今私に質問している者、それこそが宝の蔵なのだ。
その宝の蔵には、あらゆる教えが皆具わっていて何も欠けるところが無い。
そしてその宝を自由自在に使うことができるのだ。
そんな宝を持ちながら、どうして外に向かって求めようとするのか」と示されました。
大珠は、そう言われてハッと気がつきました。
自分の心というのは、知る対象ではないと分かったのです。
知ろうとしている、まさにその心そのものが仏なのだと。
宝を探している、あなた自身が宝なのですよというのです。
馬祖は更に、その心は私たちの日常のあらゆる動作に現れていると説いたのでした。
そんな教えが、馬祖から百丈、百丈から黄檗、黄檗から臨済へと受け継がれてきました。
そこで後に臨済が、「仏法は、何も特別なことではない。
ただ普段どおりに、大小便をすませ、着物を着てご飯を食べ、くたびれたら横になるだけのことだ。
こんなことを言うと愚か者は笑うだろうが、智者は解ってくれる」
と説かれたのでした。
こう説かれてもピンとこないかもしれませんが、考えてみれば、子どもは親にとって宝であります。
生まれた赤ん坊の頃を思うと、何も特別なことをするわけでもなく、ただ泣いたり、大小便をしたりするだけで、親にとっての宝なのです。
ところが、だんだん欲が出て来て、余所の子よりももっと賢くなってとなどと思うから、いろんな問題が起きてきます。
年を取ってもそうです。お年寄りになった親というのは、特別何かをするわけでなく、ただ生きてくれていることが宝なのです。
馬祖の教えは、人間の本質に迫るものです。
横田南嶺