仏光国師のご命日
仏光国師は、無学祖元というお名前であります。
西暦一二二六年、中国の明州慶元府でお生まれになりました。
お亡くなりになったのが、一二八六年九月三日でありました。七三四年前のことであります。
本当は九月三日のご命日ですが、一月遅らせて十月三日にご命日の法要を勤めています。
円覚寺の諸行事の中でも、最も大切なお勤めであります。
ご命日の前日には、宿忌という法要を夕刻にお勤めしています。
仏光国師の残された語録を『仏光国師語録』といって、今も毎月勉強会をして学んでいます。
『円覚寺史』を編纂された玉村竹二先生は、仏光国師のことを、
「国師は本来情に脆い人で、あらゆる人に温情を以て接し、他人の憂喜についても、同情を寄せることが多大であったが、
…国師の母に対する優しい思い遣りと、母と二人寂然と庵居してる心情を吐露して、人の心を打つものがある」
と評しています。
三十歳から七年ほど、仏光国師は、白雲庵というところで母を養って暮らされていたのでした。
その頃の詩も残されています。
更に玉村先生は『仏光録』については、
「この『仏光録』は国師の天稟の詞藻豊麗なのが、自然に流露して一往も二往も、外形上の均整はとれながら、しかもその詞藻と、真情吐露の直截さは、恰も杜詩を読むが如く、一点の偽りも虚飾もなく、読む人の胸を打ち、しかもその文中には、多くの史実を蔵し、史料としての価値も絶大なものがある」
と述べられています。
詩文の才能豊かであったことは間違いありません。
難しい漢文ですが、毎月勉強を重ねています。
お優しいご性格は、生来のようで、ご幼少の頃から、生きものが殺されるのを、まるで我が身を切られるように痛がったと語録には書かれています。
また涙もろいご性格でなかったかと想像します。
もし涙を流したならば、海の水も干上がってしまうほどだろうという意味の語も残されています。
いくら涙を流しても足りることはないというのです。
もう昨年のことになりますが、東京日本橋の三井記念美術館において、仏光国師の尊像をお出しした折に、俳人の長谷川櫂先生は、読売新聞に、
「禅といえば一切を超越した悟りの境地を想像する。高僧たちと並べて展示してある仏たち、釈迦如来や観音菩薩、地蔵菩薩はいずれも人間離れした安らかな面持ちをしている。
ところが建長寺の蘭渓道隆、円覚寺の無学祖元、その孫弟子の夢窓疎石。生身の禅僧たちの顔はみな苦悩の表情をたたえていた。
深く刻まれた皺(しわ)、重く垂れた瞼。あるいは欲望の渦巻く人間界を嘆くかのような表情を浮かべ、あるいは血みどろの策略の横行する末世に絶望したかのような影を宿している。
全宇宙でもっとも悩み、苦しんでいるのが私であるというかのように」
仏光国師の憂いとは何だったのでしょうか。
長谷川先生は、
「執権・北条時宗の招きで中国から来日したのが五十三歳、鎌倉で亡くなるのが六十歳。
生涯、日本語が話せなかった。時宗とは筆談を交わし、法話には通訳がたったという。
東アジア中華文明の中心である南宋から、言葉も通じない辺境の鎌倉へ。
彼の目には滅びゆく南宋も海の彼方の日本も、同じ人間の苦悩の大海と映っていただろう」
この苦悩の大海に渦巻く吾らを見て、慈悲の涙を流されているのだと思います。
涙なぞ流して、なんの救いになるかと言われるかも知れません。
しかし、本当に苦しみのどん底にあるとき、私の為に涙を流してくれる人がいてくれるという事は、その人にとってどんなに大きな力になるでしょうか。
これこそ慈悲の究極です。
じっと衆生の悩み苦しみを見つめ、ただ涙が枯れることがない、慈悲心、大誓願心は尽きることはないのです。
円覚寺の開山忌には、毎年よく雨が降ると言われています。
そのために、建長寺様の御開山を「石割開山」と呼ぶのに対して。仏光国師は「円覚の泣き開山」と言われています。
文字通り建長寺の開山忌は、石も割れんばかりの暑い最中に行われ、円覚寺の開山忌は、しとしと雨が降るものです。
開山忌には毎年のように降る雨を眺めながら、国師の慈悲心の深さを思います。
今年は、天気予報では雨が降らないようですが、
どうぞわれら末世の比丘を憐れみ導きたまえと祈る心で、開山忌をお勤めしたいと思います。
今年は特に四年に一度行われる巡堂といって、御開山様の御尊像を輿の載せて、境内を一巡してご覧いただくという儀式を行います。
十月三日の午前十時から、仏殿の中で法要を営み、引き続いて巡堂が行われます。お堂の中には入れませんが、屋外の儀式を拝んでいただくことは可能です。
横田南嶺