食べること – 其の二
早く飲み込んでしまうのではなく、ゆっくり味わって噛むことが大事だということです。
それから、もっと大切なことを書き忘れていました。
それは、食べ物をいただく時の心であります。
修行道場では、五観の偈を唱えています。
どんな気持ちでいただくのかということです。
一つには、功の多少を計り彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つには、己が徳行の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。
三つには、心を防ぎ過貪等(とがとんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。
四つには、正に良薬を事とするは形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんが為なり。
五つには、道行を成(じょう)ぜんが為にまさにこの食(じき)を受くべし。
というものです。
およそを意訳しますと。
一つには、この食事が食膳に運ばれるまでに幾多の人々の労力と神仏の加護によることを思って感謝していただきます。
二つには、私どもの徳行の足らざるにこの食物をいただくことを過分に思います。
三つには、この食物に向かって貪る心、厭う心を起こしません。
四つには、この食物は天地の生命を宿す良薬と心得ていただきます。
五つには、この食物は道行を成ぜんが為にいただくことを誓います。
というものです。
道場ではいつも唱えますが、ついつい呪文のようにただ唱えて意味を味わうことが疎かになってしまいがちです。
そこで時には、もう少し分かりやすい偈文を唱えることもございます。
天地(あめつち)一切衆生の恩徳を思い
己が行いを省み
貪りの心を離れ
心静かに良く噛みて
道業を成就せんがために
この食を戴きます
というものです。
これに対して食後の言葉が、
衆生馳走のたまもの
今すでに受く
願わくばこの力をいたずらに
消すことなからん
大事なことは、この食物がどれだけ、たいへんな有り難いものであるかを思い、そんな食事をいただけることを感謝して、各自の仕事なり修行なりに励もうという心です。
昨日、知人からいただいた手紙の中に、「食を通して何を学ぶか」という記事のコピーが入っていました。
その文章の中に、一人の小学生の文章が書かれていました。
『「いのち」の輝き』(丸山敏秋著 新世書房)からの引用です。
「生まれてから今日まで、この命が守られているのは、毎日ご飯を食べているからだと思います。
昨日も、今朝も、魚や肉や野菜をおかずにご飯を食べました。食べ物はみんな生き物だから、私に食べられちゃう前は生命を持っていました。
(中略)
私のこの生命のなかには、ものすごくたくさんのほかの生きものの生命があるし、前に食べられたあの食べ物の生命は、ほかの人が食べたものの生命と取り替えることがもうできません。
だから、自分の生命は尊いと思うんですけど……」
というのです。
少女の素直な思いです。
仏教では、孤立して存在するものはないと説きます。
命といっても、同じです。常に他のものをいただきながら、関わり合いながら、ようやく保たれているものです。
自分一人の命ではないということは、食べるという営みからも感じることができます。
まず、私が生きていることは、多くの命の関わり合いのおかげだという感謝と敬意をもって、毎日の食事をいただく、このことが、仏道でも養生でも一番の土台であります。
横田南嶺