ありのまま
「われわれ人間も、この「暑い」「寒い」ということをいわなくなったら、おそらくそれだけでも、まず同じ職場内では、一流の人間になれると言ってよいでしょう」
という言葉があります。
これなどは、耳の痛い言葉であります。
私なども、ついつい「いつまでも暑いですね」と言ってしまったりしています。
森先生も、
「この「暑い」「寒い」ということを、徹底的に言わないという場合、一番困るのは、人と出会った際先方から、「今日はお寒いですな」と言われた時でしょう。」
と仰せになっています。
森先生は、
「そういう場合には、「なかなか厳しいですな」言ったらよいわけです」
と示してくださっています。
そう言われても、これもまた「なかなか厳しい」ことであります。
禅の場合、とくに馬祖禅師の説かれた「平常心」とは、取りつくろうことをしないことであって、ありのままの心であります。
そこで、暑い時には、暑いと言い、寒い時には寒いと言うのです。
もちろん、禅の教えも多様性があって、有名な「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」という言葉もあるくらいですから、どんな状況でも微動だにしないことを説く場合もございます。
とりわけ禅の修行する時には、どんなに暑くとも、その暑さの中になりきってしまって、暑いとも思わない、むしろ涼しいくらいの心境になるものです。
これもまた必要なことであります。
どんな寒中であっても汗ばむくらいの勢いで坐禅をすることも必要です。
しかし、いつまでも、そのように暑いとも思わぬ、寒いとも感じないだけでは、この世の中を生きるのに、周りに窮屈な思いをさせかねないと思います。
そこで、暑いとも思わぬ、寒さも平気だという心境を得ておきながらも、それでいて、暑い時には、皆さんといっしょになって「いやあ、暑いですね」と言って、団扇で扇いでいるというのがよろしいように思います。
そんなことを思っていて、青山俊董老師の新著『さずかりの人生』を拝読していました。
これは知人から頂戴したものです。
そのなかに興味深い話がございました。
半世紀ほど前の話だそうです。
曹洞宗には、永平寺と総持寺の二つの本山がございます。
永平寺と総持寺とどちらにも禅師様がいらっしゃって、今ではどちらかの禅師が交代が曹洞宗管長を務めることになっています。
その頃、永平寺の禅師様と総持寺の禅師様とが、若き日にともに修行されたという仲だったそうです。
そこで総持寺の禅師様が、永平寺の禅師様を訪ねることになりました。
総持寺の禅師様をお迎えする永平寺としては、全山あげておもてなしの支度をしました。
掃除はもちろんのこと、玄関から廊下からそれぞれの場に相応しいお花を活けました。
禅師様がお控えになるお部屋には、特に整然と見事なお花が活けられていました。
ところが、永平寺の禅師様が、その部屋を点検に来られて、その整然と活けられたお花をわざわざザックリと崩してゆかれたと言います。
どうしてでしょうか?
総持寺の禅師様の随行で見えた侍僧の方も不審に思いました。
そこで永平寺の禅師の侍者の方が、禅師様がわざわざ花を崩されたこと、普段着で我が家の居間にくつろぐ思いでお過ごしくださいとのお心だと告げられたという話でした。
たしかに、あまりに完璧にされると、招かれた方も肩が凝ってしまいます。
ざっくばらんとまではいかなくとも、少し打ち解けた方がよろしいかと思います。
もちろんのこと、花の活け方もなにもしらずに、崩しては何もなりません。
ここで大事なのは、きちっと活けることができた上で、あえて完璧にせずに崩していることなのです。
暑い、寒いにしても、暑いとも寒いとも思わぬくらいの修行をした上で、暑い時には「お暑いですね」と言い、寒い時には「お寒いですね」と言うことが大事ではないかと思います。
ですから馬祖禅のありのままというのは、はじめからありのままでよいというのではなくて、厳しい修行を経た上でのありのままだと思うのであります。
横田南嶺