祈りの姿
今年は夏休みも短く、既に学校が始まっているそうです。
毎日授業のあとに机、椅子、一つひとつにアルコールを拭きかけ、更に雑巾で拭き取っているそうなのです。
当初は、「効果があるのだろうか」と疑問に思っていたそうなのですが、
「これは私たち教師の祈りの姿なのだ」と気づいたというのであります。
この先生は、円覚寺の前の管長ともご縁が深く、また諸宗の高僧方ともご縁のある先生であります。
それだけに、深い気づきであります。
感染症の問題については、いろんな意見がありますので、まだいったいどれが本当なのかはっきりしないところがあります。
これから更に研究が進んでいけば、もっといろんな事が明らかになってくるのだと思います。
歴史をみても、過去に治療と称して行っていたことであっても、今の医学からみれば、何の意味もないようなこともあったことでしょう。
それと同じように、ひょっとしたら、今やっていることでも無意味だと分かることがあるのかもしれません。
しかしながら、今の私たちは、今現在分かっていて、広く言われていることを行うしかありません。
同じ行いにしても、「何になるのか、わかりはしない」とか、「どうせたいしたことない」、「無意味かもしれぬ」などと思いながら行うのと、生徒の一人一人の無事を祈って行うのとでは、天地の隔たりです。
祈る心で行えば、その行いは、「祈り」になるのです。
鈴木大拙先生の言葉に
「ほんとうの祈りというものは、叶うても、叶わんでも、
むしろ叶わんということを知りつつ、
祈らずにおられんから祈るというのがほんとうの祈りで、
祈るから叶うという、
相手に、目的をおいて祈るのではほんとうの祈りではない」
というのがあります。
私たちが、世の中のしくみをすべて理解することは無理でありましょう。
今できることを、「祈り」の心で一心に行うのみであります。
寺にいますと、毎日雑巾がけをして、庭掃除をします。
仕方なしにやるのと、祈る心で行うのとでは、天地の隔たりであります。
毎日称えるお経にしても、ただ習慣でおこなって、惰性になっていないか反省させられます。
自分の毎日の姿が、果たして「祈りの姿」になっているのだろうかと、いただいたお手紙を読みながら、我が身を深く反省しています。
横田南嶺