因と縁
『大乗起信論』には、因と縁について、木と火の譬えが用いられて分かりやすいのです。
木は、燃えるものです。
ですから、木には燃える原因となるものがあるのです。
起信論は、「木中の火性は火の正因」と説かれています。
木は燃えるものであるということは確かでありますが、何にもせずにそのままで燃えることはありません。
誰かが、この木に気づいて燃やすことをしないと燃えないのであります。
マッチで火をつけたり、焚き付けを作って燃やしたりしないと火はおこらないのです。
外からいくら火をつけようとしても、燃えるものでなければ燃えません。石に火をつけようとしても燃えないのです。
木には燃える原因があることは確かですが、条件が整わなければ火はおこりません。
人は仏になるものです。
仏になる原因を持っています。これを「仏性」と申します。
しかし、仏菩薩の導きや良き指導者に出合ったり、よい書物を読んだり、実際に修行したりするという縁に触れないと、仏にはならないのであります。
木はもえる性質のものでありますが、湿ったり濡れたままだといく火をつけても燃えないのです。
良い条件を整えることが必要なのです。
『延命十句観音経』に「与仏有因、与仏有縁」という言葉が出て来ます。
「与仏有因」は、「仏と因あり」であって、仏になる原因を持っていることを表します。
しかし、「与仏有縁」という良き縁に逢わないと仏にはならないのであります。
私たちは、まだ濡れたままの木であるのかもしれません。
そうであれば、まずよく乾かすことから始めなければなりません。
仏になるには、まず「戒」というよき習慣をしっかりと身につけることから始めます。
そして心を調えて、波立たないような静かな、そして素直な心になることです。
そのうえで、よき指導者の教えを受け、よき書物、経典語録などを読んでいくのであります。
そのような条件が整って仏になるのです。
後に禅では、心が即ち仏であると説くようになるのですが、単にこのままでいいというわけではありません。
「このままで仏だ」という場合もありますが、それは原因と条件、因と縁が十分に調った上でのことなのです。
木と火の譬えは分かりやすいものです。
横田南嶺