精進、精進
真理そのものは、直接理論では説くことができませんので、譬えをもって説くしかできなかったのであります。
ある時に譬え話に、
「もろもろの歩行するものの足跡はさまざまであるが、それらはすべて、象の足跡の中に包摂され、象の足跡こそ最大であると説かれる」
と示されました。
象の足跡がもっとも大きく、他のどんな動物の足跡であっても象の足跡のなかに収まってしまうというのです。
これは何を譬えたかといいますと、世の中には様々な道があるが、それらの道は、すべて不放逸(ふほういつ)をもって根本とするというのです。
諸々の善法のなかにおいて、不放逸こそ最大であり、また最上であると説くというのであります。
不放逸とは、怠らないことであり、それは精進努力を表しています。
脇目を振らずに懸命に努力を続けることです。
これをお釈迦様は生涯かけて実践され、弟子たちにも説き続けられたのでした。
どんな修行であろうとも、精進にまさるものはないという譬えなのであります。
また別の譬えでは、
「たとえば星空にもろもろの星が輝いているが、それらは全て、月の光には及ばない。月の光は、夜の空において最も偉大とされる、そのように、世の中にもろもろの道はあるが、すべて不放逸をもって根本とする」
と説かれ、また或いは、
「たとえば秋天に一点の雲なきとき、陽日は蒼天にのぼり、一切の冥暗をはらうて赫々として十方に輝くように、世の中にもろもろの道はあるけれども、それらはすべて不放逸をもって根本とする、不放逸を最大となし、最上となす」
と説かれているのであります。
仏教の修行は古来、五十二位の階梯があると説かれてきました。
十牛図の十どころではなく、五十二もあるのです。
しかもそれは五年十年でなんとか達成できるようなものではありません。
三大阿僧祇劫というとてつもなく長い時間かけて、何回も何回も生まれかわりを繰り返して修行するというのです。
禅では、そんな階梯は要らない、いっぺんに如来になるのだと説きました。
一超直入如来地と申します。
たしかに禅の教えは魅力的ではあります。
しかし、そんな長い間かけても、何度も何度も生まれ変わっても修行しつづようと目指す努力もまた尊いものです。
三大阿僧祇劫というと、阿僧祇劫は十の五十六乗などとも言われるほど気の遠くなるような時間です。
そんな長い期間を設けて、いったい何を意味するのであろうかと、長い間疑問に思っていました。
この頃、これは果てしなく永遠に精進し続けることを説いているのだと思うようになりました。
お釈迦様のご生涯を拝見しても、お亡くなりになるまで精進し続けておられるのであります。
これでいいと安住するのではなく、菩提はまだまだ、はるか彼方だと思って、永遠なるものを求めて永遠に精進し続けることを、そんな長い時間で説こうとされたのだと思うのです。
『法句経』の中にも、
「精進こそ不死の道、
放逸こそ死のみちなり。
いそしみはげむ者は死することなく
放逸にふける者は生命ありともすでに死せるにひとし(法句経二一)」
とあるほど、お釈迦様は精進を大切に説かれました。
同じ『法句経』に
「人もし生くること百年ならんとも
おこたりにふけり
はげみ少なければ
かたき精進にふるいたつものの
一日生くるにおよばざるなり(法句経百十二)」
とまで説かれているほどです。
精進、精進、どこまでも精進、不断の努力は天才に勝ると申します。
こつこつ精進あるのみ、どこまでも精進、精進というのが仏道であると思うようになりました。
横田南嶺