水が水に帰る
お坊さんが亡くなった時に、ある修行僧が師の雪峰禅師に質問しました。亡くなった僧はどこに行ったのですかと。
雪峰は答えました。
人が死ぬということは、氷が水に帰るようなものだと。
それを聞いていたお弟子の玄沙が言いました。
それはそうかもしれないが、わたしならそうは言わない。
雪峰が、ではいったい何と答えるのかと問うと
玄沙は「水が水に帰るようなものだ」と答えました。
鈴木大拙先生の『禅の思想』に出てくる話です。
氷という形あるものが、溶けてしまって、何の形もない水に帰るのだというのが雪峰の説であります。
氷も水の本質に変わりはありません。
ただ形があったのが溶けただけのです。
しかし玄沙は、もとから水であったのが、もとの水に帰っただけだと説きました。
玄沙の説法には、
「ちょうどあなた方は大海の中に沈んでいて、頭の上まで水の中に浸たりながら、手を上げて、どうか水一杯おくれと言うようなものだ。
河のそばで水がほしいと言っているのなら、まだわけのわからぬこともなからうが、身は既に水の中にいるのだ。
わかるか。般若の大智慧があれば、それがわかる。
箇事は唯々我能く自ら知るのである」
というのです。
朝比奈宗源老師がよく用いられた引導の句に、
仏心直に亘(わた)る、古来今
生死猶、金を以て金に換えるに同じ
という言葉があります。
生まれて死ぬというのは、金を金に換えるが如く、何も変わりようがないのだという意味であります。
そんな風に受けとめられたら、生も一時の夢に過ぎないと気がつくのでしょう。
しかしながら、人間には、「さはさりながら、さりながら」ということがあります。
「そうは言ってもね」というところがあるものです。
前管長の足立大進老師がお亡くなりになって、もうすぐ半年も経つのですが、どうもいまだに亡くなったという実感がありません。
毎朝の読経で、足立老師の名も称えてご回向するのですが、私にとっては、いまだに回向するあちら側に老師がいらっしゃるのではなく、まだ私たちと同じこちら側にいらっしゃるという思いなのであります。
外で救急車の鳴る音がすると、今も「老師はだいじょうぶかな」という思いがよぎります。
少し経って、そういえばお亡くなりになったのだと思い起こします。
というように、今もこちらにいらっしゃる思いが消えません。
そんなものかなと思いつつも、やがてはこんな思いも、氷が溶けるように、消えてゆくのかもしれません。
横田南嶺