大悲を学ぶ
どうも有名らしいのです。その「いきものがかり」の水野良樹さんが、毎日新聞八月四日の夕刊に書かれていた文章に心打たれました。文章も内容も、実にすばらしい。久しぶりの感動です。
タイトルは「誰かの力になれる作品を」というもので、「交番の掲示板に悲しみ」という題も付けられていました。
私は、この「交番の掲示板に悲しみ」という言葉に、関心を持って読んでみたのでした。
文章のはじまりから素晴らしいのです。
「「悲しみ」という感情はその人の心の中の暗がりで、声を殺しながらひっそりとたたずむように存在するもので、
たとえ誰かが優しさを稼働させていくら外から手を伸ばしても、本人以外、誰にも触れることのできないものだと思う。
それはおそらく、不可侵なものだ」
とあります。
詩人だなと思っていましたら、「シンガーソングライター」であると紹介されていましたので、詩を書かれる方なのでした。
短い文章で、悲しみの本質を見事に表現しています。
そんな水野さんが、毎朝利用する駅の近くの交番の前を通るのだそうです。
「昨日の交通事故」という文字が目に入ります。
そこに書かれている死亡者数がいつも気になってしまうそうなのです。
ゼロだとホッとされて、「1」や「2」という数字を見ると、
「「今悲しんでいる人がいるのだな」と遠い場所で起きた悲劇に胸の奥が少しだけ痛む」
というのであります。
しかしながら、改札を通り過ぎて、電車に乗って日常の中に動きだしてしまうと、「掲示板のことなどすぐに忘れてしまって何事もなかったかのように自分も生活に戻っていく」のであります。
それでも、交番の前を通り、その死亡者数をご覧になって、「今悲しんでいる人がいるのだ」と思う心が尊いのであります。
悲しみを知る心、悲しみを察する心、これこそが「大悲の心」にほかなりません。
水野さんは、
「大きな災害が起きたり、多数の犠牲者を出す惨事が起きたりすると「みんなが勇気づけられる曲を書いてください」と言われることが職業上よくある。「音楽の力」なるもので、悲しんでいる人たちに向けて励ましの風を送れと言う」
と書かれています。
これは、私などにもよく分かります。
被災した方を勇気づける法話をしてくださいと言われることがあります。
水野さんも、
「書けるものなら書きたい。誰かの力になれる歌を書くことは永遠の命題と言ってもいいくらいだ」
と言います。その通りです。私もそんな法話をできるものならしたいと思います。
私の場合は、とてもそんな法話ができるわけもなく、いつも挫折して終わりなのであります。
しかし、水野さんは仰います、
「だが、交番の掲示板を前にして、ふと思うときがある。この数字の先にある悲しみにはいったい誰が声援を送り、誰が歌を贈るのだろう」と。
「昨日、かけがえのない人を失った誰かが一人でその悲しみに向き合っている。その人にしか理解できない深い悲しみに対峙している」のであります。
大きなニュースになるような場合、犠牲者の数など報道されますが、「それはあくまで「たった一人の深い悲しみ」の集積なのだ」とまさにその通りです。
最後に水野さんは、
「「ひとつぶの涙にも向き合い、手を添えられたなら」。
以前、そんな歌詞を書いたことがある。
今日もどこかで、誰かの人知れぬ悲しみに、放った歌たちが手を添えてくれていることを祈る」
と書いて終えられています。
感動しました。
大悲の心そのものであります。水野さんの文章に「大悲の心」を学びました。
こんな心で歌詞を書かれ、こんな心で歌を歌われたならば、きっと多くの人の悲しみをいやしてくれているのでしょう。
歌に縁遠い暮らしをしている私も、一度聞いてみたいものだと思いました。
横田南嶺