無数の如来が説法する
玉城康四郎先生の『スタディーズ 華厳』にある意訳を参照します。
「一毛端処(一本の毛のはじっこのところ)において無数の如来がいまして、
そのいちいちの如来が無数の衆生に説法しておられる。
そしていちいちの衆生の心に応じて無量の法を授けられる。
この一毛端処のように、一切の法界においても同様である。
われわれはこのような広大な念を成就すべきである」
というものであります。
一本の毛のはじっこに無数の如来がいて、無数の衆生に説法しているとはどういうことでありましょうか。
玉城先生は、分かりやすいように次のようなたとえを引いて解説してくれています。
「たとえば次のように考えます。
あるちょっとした出来事でわれわれはよく悩みますね。
ほんのちょっとしたことでも気になって、なかなかその間題が心から離れない。
客観的に見ればほんのささいなこととは承知していても、
そのささいなことが自分の心の全体を占領して、その悩みから解放されない」
たしかにほんのささいなことが心全体に影響を及ぼすということはあります。
心のみならず身体全体に影響を及ぼします。
そこで、そのほんのささいなことを、たいしたことがないと捨て去るのではなくて、そのささいなことを見つめるのです。
すると、玉城先生は
「ごくささいなこと、…じっとそれをだきしめてみると、その問題に無数の力が働いてくる。
それは無数の如来がいちいち説法しておられるようですね。
私のかかえている問題に、無数の如来がよってたかって働いてきて説法してくれる。
そういう細かな細かなことが、実は宇宙いっぱいに遍満して仏が働いている」
と説いてくださっています。
そう説かれても、まだまだ私たちには腑に落ちません。
もっと具体的に玉城先生は、私たちのこの身体をたとえに説いてくれています。
私たちの身体には、たくさんの細胞があります。
その細胞の一つ一つは生命体なのです。
実に私が、今こうして生きているということは、実に何十兆という細胞が、体内の平衡状態を保ってくれているおかげなのです。
すると玉城先生が
「つまり、私自身が知らないうちに、私のこの体の中で、
無数の生命体が四六時中活動して適切に働いているために、
私自身が生かされているのです」
と説かれている通りなのです。
これは、誰しも否定できない事実であります。
そういうことを
「腹におさめて禅定に入るとき、この全人格体のなかで無数の生命体が働いており、
それが一転して、無数の如来が「正しく生きよ、正しく生きよ」
と說法しつづけておられるすがたが響いてくるようです」
と説かれることが理解できるようになります。
細胞の一つ一つが、「生きよ、生きよ」と説法し続けてくれているのです。
その細胞すべて、からだまるごとで禅定に入ってゆくのです。
どうも私たちは、頭の中の思考だけで解決しようとしてしまっているのではないでしょうか。
横田南嶺