唯心の教え
その中に「三界唯心」という教えがございます。
唯心偈とよばれている百字の偈文もございます。
そのはじめには、
「心は工みなる画師の如く 種種の五陰を画き
一切世界の中に 法として造らざる無し
心の如く仏もまた爾り 仏の如く衆生も然り
心と仏と及び衆生との 是の三に差別無し
諸仏は悉く了知す 一切は心從り転ずと」
という一節で始まっています。
おおよその意味を訳しますと、
「心は、巧みな画家が、物と心とからなるさまざまな世界を描き上げるように、一切の世界においてあらゆるものを造り出す。
心のように、仏もそうであり、仏のように、私たち衆生もそうである。心と仏と私たちとの三者には、区別はない。
仏さま方は、みな、一切のものは心から起こるということをはっきりと知っておられる」
というところです。
絵師がさまざまな画を描くように、心がこの世界を造り上げるのだというのです。
「三界唯心」とは、この迷いの世界はただ心が造り出すのだと説いているのであります。
その心が迷いの世界を造り出すということはどういうことかというと、己に対するとらわれ、執着、即ち我執というものが原因となっています。
この世界は、我執が造り出しているということです。
玉城康四郎先生の『スタディーズ 華厳』には、この全ては心が造り出すということに続いて、これだけで驚いてはいけないとして、更に驚くべきことが説かれています。
それは、
「『全世界の迷いはそのままただ心のみである』と知られた時に、スーッと迷いも我執も消えてしまうのです」
というのです。
「我執がいかに底なく根が深いとしても、結局つづまるところ、幻影に過ぎない」ということが分かれば、幻は消えるというのです。
最初に掲げた唯心偈は、古来「破地獄の偈」とも呼ばれています。
この偈文を称えると、地獄も無くなるというのですが、それは全ては我執が造り出したものだと気がつけば、一切の幻は消えてしまうことを示しているのであります。
後に、この教えは、「唯識」という複雑な仏教哲学へと発展してゆきますが、もともとは苦しみを滅する道なのです。
横田南嶺