仏の力
全人格的思惟ということをよく仰せになっていました。
全人格的思惟とは、単なる知識を弄ぶのではなく、まさしく瞑想であり、禅定そのものであります。
玉城先生は、臨済の坐禅もなされたようですが、ブッダの禅定を目指されていました。
ブッダの言葉とされる『ウダーナ』にある
「実にダンマ(法)が熱心に禅定に入っている修行者に顕(あら)わになるとき、
そのとき一切の疑惑は消滅する。
あたかも太陽が虚空を照らすように、悪魔の軍隊を粉砕して安(やす)らっている」
という偈に注目されました。
玉城先生の言葉によれば、
「ダンマというのはダンマとしか言いようのない、実は言葉では著すことの出来ない、形のない「いのち」そのものです。
今日の言葉で言うと、宇宙を貫いている「いのち」そのものです。
私も今生きておりますから、命に基づいて生きている。
その私の今生きている命そのものに、宇宙を貫いているいのちが通じてくる」(『ダンマの顕現』119頁より)
この「ダンマ」というのが、「いのちそのもの」という解釈などは、玉城先生独自も見識であります。
ご自身も全人格的思惟という深い禅定から出てきた見識でありましょう。
春秋社の『スタディーズ 華厳』にも、次のような一節があります。
「私たちが坐禅をくんで三昧に入る時、それは仏の本願力に催されて入る、仏の力に裏打ちされて入るのです。
それが仏教の三昧の根本です。
自分が入ろうと思うのでは三昧にならない。
自分というものが残るからです。
それは我力です。それでは三昧には入れない。
そうではなくて、この自分が仏の力に裏打ちされて、あるいはしるしづけられているから入れるのです」
というのです。
自分の力で三昧に入るのではないというご指摘なのです。
いくら歯を食いしばって、丹田に力をこめて息に集中しようとしても、それでは我力なのです。
いくらやっても我力の増長になりかねません。
我力の抜けたところなのです。
玉城先生は
「こうして何の気もなしに生きてるというそのことが、実は華厳経で言えばたいへんなことなのですね。
自分は気がつかないけれども、のべつまくなしに仏の神通力が働いている」
と仰せになっています。
私たちが何気なしに生きてるということ、意識しなくても呼吸し、食事をして大小便をしていることに、実は大いなる仏の力が働いているのです。
そんな大いなる仏の力に催されて三昧に入ってゆくのです。
横田南嶺