人間の尊厳
師、衆に示して云く、
「道流、仏法は用功(ゆうこう)の処無し、祇(た)だ是れ平常無事(びょうじょうぶじ)。
屙屎送尿(あしそうにょう)、著衣喫飯(じゃくえきっぱん)、
困(つか)れ来れば即ち臥(ふ)す。
愚人は我を笑うも、智は乃ち焉(これ)を知る。
古人云く、『外に向って工夫を作すは総べて是れ痴頑の漢なり』と」
という一節があります。
岩波文庫の『臨済録』の訳によれば、
師は皆に説いて言った、
「諸君、仏法には、造作の加えようはない。
ただ平常のままでありさえすればよいのだ。
糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけだ。
愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。
古人も『自分の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている」
というのであります。
『臨済録』の中でも、よく知られた一節であります。
臨済の禅といえば、気合いを入れて歯を食いしばって修行するという印象が強いと思われますが、この文章を読むと力が抜けてしまうように感じるかもしれません。
何せ、仏法は造作の加えようがないと説かれています。
造作とは何かというと、馬祖の教えによれば、
「道を修めようとする作為、あるいは道に向かおうとする目的意識、それら一切」
を言います。
そんなことは必要がない、ただ大小便をしたり、着物を着たり、飯を食ったり、疲れたならば横になるだけだというのです。
私も長らく理解しがたいところでした。
「愚人は笑う」というのは、よく分かります。
なんだ、そんなことは当たり前ではないかというのです。
現代になって、人工知能の開発という問題が出てきました。
私も数年前に、人工知能の国際会議で話をすることになりまして、少しばかり勉強したことがあります。
私たちが行っているさまざまな仕事などが、やがて人工知能に取って代わられるであろうという問題であります。
多くの事を、人工知能がやってくれるようになります。
この問題を考えることは、つまるところ、人間とは何かを考えることにもなるのです。
そういうことについて学んでいると、私はこの『臨済録』の言葉を思い起こしました。
大小便をする、服を着る、ご飯を食べる、疲れたら眠る、これは、決して人工知能に代わってはもらえないことです。
自分で大小便を出さなければ意味がありません。
服を着るのは、この自分自身の身体です。ご飯も代わって食べてもらうことはできません。
眠るのはこの自分自身が眠らないと生きてゆけないのです。
どんなに人工知能が発達しようとも決して代わってはもらえない、人間の人間たる尊厳というのは、この臨済禅師の言われた、
「屙屎送尿、著衣喫飯、困れ来れば即ち臥す」
ということになるのではないかと思い当たったのでした。
当たり前に思っていることこそ、実はそこに尊厳があるのだと気がついたのでした。
当たり前と思っていても、病気になったり、やがて老いが迫ってきて、自分で大小便できなくなったり、自分でご飯を食べられなくなったり、夜も眠れなくなるということになりかねません。
そうなってから、大小便ができるとはなんと有り難いことであったのかと気がつくのでしょう。
若し出なくなったらたいへんなことなのです。
出来なくなってから気がつくのではなく、出来るうちに気がつくことです。
そうして、臨済禅師の言うように、「屙屎送尿、著衣喫飯、困れ来れば即ち臥す」で、人間はじゅうぶんなので、それ以外のことは、単なる飾りに過ぎないのだと気がついたならば、人間お互いに争ったりすることは無くなると思います。
『臨済録』を学び始めた頃は、なんと頼りないような言葉で、よく理解できなかったのですが、この頃は、この言葉が実に深いものだとしみじみ思うのであります。
横田南嶺