いつも瞳は澄んでいよう
五日付の日曜くらぶには「希望に満ちた瞳」という題の文章でした。
海原先生は精神科医なので、産業医として社員の方と面談なさることもあるそうです。
そうして面談していて気がつくことは、
「胸にかけてある社員証の顔写真は、瞳に希望が満ちて活気にあふれている」
のに対して、
「目の前に座っているその方の表情とのあまりにも大きな違い」
があって、そのことが悲しいというのです。
たった数年の間に何があったのだろうかと海原先生は考えられます。
「人の顔は変化する。年をとれば変化するのは当然だが、若いころの印象をそのまま残しながらシワが刻まれていく人もいれば、全く別人のようになり、誰だかわからなくなるような人もいる。同級会などに行くと、そんなことに気づくことがしばしばだ」
だといいます。
たしかに私なども久しぶりに同年代の者にあったりすると、愕然とすることがよくあります。
そのたびに、ああ自分もこのように見られているのであろうかと思います。
更に
「大きなストレスがあると、顔の表情が失われ活気がなくなるが、そうしたこととは別に、全く別人のようになってしまうのは、その人自身の生きる方向が影響しているような気がする」
と書かれています。
「生きていくのは大変で、どんな立場であっても自分が本来もっていた希望や方向性を、そのまま進めるのが難しいことがおこる。道が分かれるのは、そうした場合だろう。生きていくのを楽にしようとして自分本来の志を捨てたり、なかったことにして、一見楽な道を選ぶと、生活が楽になる確率はたかくなるだろう」
と書かれているように、この世を生きてゆくには、ある程度の妥協をしなければならないのでしょう。
やむを得ない一面もあろうかと思いますが、そうしていつの間にか、自分が持っていた志を失っていくことになり、瞳から輝きが失われていくことになってゆくのでしょう。
そこで海原先生は、
「悪く言われず、評価されて、上司の覚えもよいのは結構なことだが、覚えをよくするために、志をなかったことにすると、別人の道を進むことになる。時々立ち止まり、自らの心のある場所をみつめてみることが必要だ」
と締めくくられています。
和尚さん達にも同じようなことが言えると思います。
修行僧の頃は、皆瞳が澄んでいます。
和尚になってからも、志を失わずにいれば、よい意味で顔に年輪が刻まれてゆくように思います。
しかし、随分と違った表情になってしまう場合もあります。
和尚さんには直接言わなくても、檀家さんや周りの人たちは皆気がついていることでしょう。
海原先生は、このコラムで、最近話題のとある政治家が、当選した頃の顔と最近テレビで見る表情とで別人のようだと書かれていますが、
私たちも、そのように見られないように心しなければなりません。
顔に瞳に、心は現れるものです。
そう思うと坂村真民先生の詩を吟じてみたくなります。
なやめるS子に
だまされてよくなり
悪くなってしまっては駄目
いじめられてよくなり
いじけてしまっては駄目
ふまれておきあがり
倒れてしまっては駄目
いつも心は燃えていよう
消えてしまっては駄目
いつも瞳は澄んでいよう
濁ってしまっては駄目
横田南嶺