閑古錐(かんこすい)
耕山老師に、私はお目にかかったことはありませんが、書物を読んだり、私が師事した目黒絶海老師や小池心叟老師から、その話を伺っていて、学生時代に徳雲院を訪ねて数日坐禅させてもらったことがあります。
耕山老師は、明治九年のお生まれで、幼くして出家し、曹洞宗の寺の住職になられています。
その後、東京哲学館という今の東洋大学で学ばれ、円覚寺の釈宗演老師に参禅されています。
更に伊深の正眼寺に掛搭して五年ほど、臨済宗の僧堂で修行されています。
四十歳になろうかという時に、久留米の梅林寺僧堂に掛搭して、臨済宗の修行を終えられた方であります。
五十九歳で、五日市にある建長寺派徳雲院の住職となられました。
それからというのも、只管打坐と作務三昧の暮らしをお亡くなりになるまで続けられた禅僧であります。
徳雲院は僧堂ではありませんが、耕山老師の徳を慕い、僧侶や在家の方など参禅する者が後を絶たなかったといいます。
目黒絶海老師なども、耕山老師のところで修行もされているのでした。
九十六歳でお亡くなりになる、その日も修行者の独参を受けておられたというのです。
秋月龍珉師による『古仏耕山』という本には、耕山老師のことが詳しく書かれています。
私は、学生時代に、耕山老師をお慕いして、徳雲院で坐禅させてもらったのでした。
その間に、耕山老師の法を継がれた柳瀬有禅老師が徳雲院にお見えになって、有禅老師とお話させていただいて、老師のお気に入っていただいたのか、そのまま老師の車に乗せていただいて、越生にある有禅老師のお寺に連れていってもらい、そのまま数日間坐禅させていただいたのでした。
有禅老師と一緒に食事をさせてもらい、いろんなお話をうかがうことができました。山で薪を集めてお風呂を焚かせてもらったりしたものです。
学生時代のなつかしい思い出であります。
なにせ、そんなすぐれた老師に会うこと、教えを聞くことが、学生の頃の私の何よりの楽しみであり、喜びでありました。
耕山老師に直接お目にかかれなかったものの、耕山老師のおられたお寺で坐禅したこと、耕山老師の方を嗣がれた有禅老師に親しくご指導を賜ったことなどは、今も忘れ難いものです。
その耕山老師の五十回忌が行われて、記念に発行された本が『閑古錐』という題名のものでした。私の知人の和尚が届けてくださいました。
耕山老師というお方は、只管打坐と作務三昧の方だとばかり思っていましたが、ご生前に何冊ものノートを付けておられ、そこにはすぐれた祖師の言葉や語録の言葉、ご自身の感慨などがびっしりと書き込まれていたらしいのです。
そのノートの内容をまとめて本にしてくださったのです。
私ども修行をする者にとっては、垂涎の一冊であります。
その内容を読んでいると、耕山老師は宗鏡録などという大部の書物を読んでおられたことも分かり、また盤珪の語録を高く評価していておられ、盤珪の語録から多くの言葉を抜き書きされていたことも分って、私も嬉しくなりました。
「自分の心を澄まして佛の心になろうと思うたり、悟りを開くと願ったりすること、そうした心の中の一切のはからいや造作は、皆邪魔ものである。
元来、佛とか凡夫とか迷いとか悟りとか、その様な区別はあるわけはない。ただその様な対立したものを、自分で立てて自分で作っているだけである」
などいう言葉は実に至言であります。
横田南嶺