三浦梅園
釈宗演老師の『禅海一瀾講話』に三浦梅園のことが出てきています。三浦梅園の
「学問は飯と心得べし、腹に飽くが為なり、掛物などのように人に見せんずるためにはあらず」 『梅園拾葉』下・戯示学徒
という言葉を引用されています。
宗演老師は、
「丁度学問を喩えれば、毎日三度食う食物の様な物だ。腹が膨らまねば学問の用を為さぬ」
と解説してくださっています。
「それも動もすれば掛物の如くにして独り床の間に掛けて置いて、サア人に見せようという、そういう風になって居る」
と指摘されていて、学問というのが単に知識を集めて、それを人に誇るようなものになってしまっているというのです。
宗演老師の師匠であり、『禅海一瀾』を著した今北洪川老師は、実にそのような儒学の現状に飽き足らずに、出家し修行されたのでした。
宗演老師は、
「現時の教育というものも、……頭ばかりを造るということに重きを置いて居る。頭を造るというのは私の今言う意味では、智慧を開くということで、それはなかなか意を用いて居るけれども、それと並び進んで行かなければならぬという情的教育、情の方の方面の教え、それから道徳的方面という様なものは、動もすると閑却されている」
と仰せになっています。
知育は大切ですが、「知情意」というように、情的な教育や、道徳的教育がおろそかになっているというのです。
そこで
「そういう意味から言うて見ると、この禅宗の修養の仕方、禅宗の修行というものは、頭を疎かにはしない、手足の教育も疎かにしないけれども、それよりも先ず先に腹を造るということに重きを置いて、今の智慧というばかりでない」
というのです。
禅では、智慧も大切にし、実際に手足を使ってはたらくことも大切にしているけれども、実際に腹を練るということを大切にしているのだと指摘されているのです。
更に
「マインド即ち心を練るということを、一寸形で言うならば、腹を拵える、坐禅工夫すると言っても架空にそれをやることではない。気海丹田と古人は言うが、そこからして練り上げてこれが形という殆んど分つべきものはない。これを究め去り究め来って行くと、心身一如で、この身体とこの心とは一如という。そこに這入り込んで行かなければならぬ」
と仰っています。
「禅宗の重きを置く所は腹を造る所にあるのであるから、この点から見ると梅園先生の言葉はますます面白い。学問は飯と心得べし、腹に飽くが為なり」
と禅で腹を練るという教えと、三浦梅園の説く所には共通したところがあるというのです。
今北洪川老師は、長年儒教を学び、その道を究めて自ら教師にまでなって、教える立場にまでなっていたのですが、頭による解釈だけにとどまっている儒教の現状に満足できなかったのでした。
たしかに、禅の修行は、身体的に坐禅という行を通して気海丹田を練り鍛えて、お互いの心の変革をもたらすという具体的な教えです。
自我中心のものの見方から、身心一如、自他一如の世界へとどのように導いてゆくか、坐禅という行や、公案という心の鍛錬による道筋が明らかになっています。
これは、禅の素晴らしさである思っています。
腹の足しにもならぬものではなく、しっかり腹の足しにもなる教えであります。
横田南嶺