今を生きる
大切なのは
かつてでもなく
これからでもない
一呼吸
一呼吸の
今である
という詩です。
「かつて」というのは、もう過ぎてしまったことです。
これが、いつまでも気になるものです。
「これから」は、未来のこと、
どうなるのかと心配になるものです。
かつて、過ぎてしまったことを悔やんだり、
まだ来ない先のことを心配したりして、
只今のことがおろそかになってしまうのがお互いであります。
先日僧堂の雲水達と、岩波文庫の『ブッダが説いたこと』を輪読していて、いい言葉がありました。
「一般に、人は自分が今行なうことに、あるいは現在に生きていない」
と指摘されます。その通りなのです。
「人は過去あるいは未来に生きている」
過ぎたことを悔やんだり、これからのことをあれこれ心配したり…
その結果どうなるかというと、
「人は今ここで何かをしているように見えても、頭の中ではどこか別なところで、問題や心配事を思い浮かべながら生きている。普通の場合には、それは過去の記憶であり、未来への願望であり、思惑である」
というのです。
そうなると
「それゆえに、人は今行なっていることに生きていないし、それを楽しんでいない。だから人は現在、今している仕事が楽しめず、不満で、していることに全注意を集中できない」
ということになってしまいます。
更に「たとえば、よく目にすることであるが、レストランで本を読みながら食事をしている人がいる。
彼は忙しいビジネスマンに見えるかもしれない。
彼は二つのことを同時にしているのかもしれない。
しかし実際には、彼はそのどちらもしていない。彼は無理をしており、心が乱れており、 していることを楽しんでおらず、無意識的に、愚かにも人生から逃避して、この瞬間に人生を生きていない」
ということになるのです、いわゆる「心ここにあらず」なのです。
では、どうしたらいいかと言えば、『ブッダが説いたこと』には
「歩く、立つ、坐る、横たわる、眠る、身体を曲げる、伸ばす、周りを見る、服を着る、話す、沈黙する、食べる、飲む、トイレに行くことなど、すべての行いに対して、それをする瞬間にそれを意識することである」
と説かれています。
これを禅では「正念相続」あるいは「正念工夫」と言います。
まさしく「今」を意識して「今」を生きることにほかなりません。
これを本当に実践することは容易ではありません。
私などは、この頃書物を読むときには、老眼鏡のお世話になるものですから、はて老眼鏡はどこに置いたやらと捜すことが多くなってきました。
狭い部屋ですから、すぐに見つかりますものの、置いた時にキチンと意識して置いていないからであります。
そのたび毎に「正念相続」が出来ていないと反省しています。
それとも単なる老化かも……
横田南嶺