多様性こそ
毎日新聞の十五日の夕刊に、生物学者の福岡伸一先生が、新型コロナウイルス感染症による今の世相をどうご覧になっているのか、人間とウイルスの関係をどう考えているのか、取材に応じて書かれていました。タイトルには「コロナ共存「生命哲学」必要」、「多様性こそが重要 教訓に」とあります。
そもそもウイルスとは何か、地球上に生命が誕生した頃に出現した原始的な生命と思われがちですが、「ウイルスが現れたのは高等生物が登場した後だ」というのです。
福岡先生は、記事のなかで、
「ウイルスは元々、私たち高等生物のゲノムの一部でした。それが外へ飛び出したものです。新型コロナウイルスはおまんじゅうのような球形をしていますが、皮に当たる部分は人間の細胞膜でできているのです」
と解説されていました。
もとは、私たちの一部だというのです。
ですから、福岡先生は、
「ウイルスに打ち勝ったり、消去したりすることはできません。それは無益な闘いです」
と指摘されます。
私などは、ウイルスというと人間に害を与えるものとしか見ていませんが、福岡先生は、ウイルスといっても、
「その中のごく一部が病気をもたらすわけで、長い目で見ると、人間に免疫を与えてきました。ウイルスとは共に進化し合う関係にあるのです」
と書かれていました。
やはり「共存」なのでしょう。
記事では、
「福岡さんは、新型コロナが示す教訓として、生命にとっての「多様性」の重要さを挙げる」
と指摘されています。
福岡先生は
「この世界では環境変化や天変地異が絶えず起こり、未体験の病原体も繰り返しやってくる。種の中に多様性があれば、感染してしまう個体がいる一方で、逃げ延びる個体もいる。進化は決して強いものが生き残るのではなく、多様性を内包する種が生き残ってきたのです」
と書かれています。
「共存」と共に「多様性」ということが大切のようです。
多様性とはこの頃よく耳にする言葉ですが、本当に多様性を認めているだろうかというと、いまだに弱い者、少数のものを排斥しようという傾向がないとはいえません。
考えてみれば、自然はもともと多様性で成り立っています。
福岡先生は、
「最も身近にある自然とは、自分自身の生命だということを再認識する必要があります。人間は、自身の生命を所有し、管理し、効率化し、いつまでも変わらず生きていけると思い込んでいます。しかし、生命は本来的に制御できず、明日どうなるかも分からない」
と指摘されています。
私も、この「本来的に制御できず、明日どうなるかも分からない」ということこそ、生命の本質だと思います。
それこそが、「無常、無我」という真理に通じると私は受けとめました。
逆に「自身の生命を所有し、管理し、効率化し、いつまでも変わらず生きていけると思い込んでい」るのが、「自我」にほかなりません。
自我意識を強くしてしまい、所有観念にとらわれ、自分で管理できる、いつまでも変わらないと私たちは思いたいのでしょう。
しかし、そうではないというのが生命の真理です。制御不能、どうなるか分からないのが真理です。
そこで福岡先生は、「コントロールできないことを謙虚さや諦観を持って受け入れることが、本来の自然を大切にするということにつながります」と、新型コロナが教えてくれたこととして語っていました。
無常ということは、明日どうなるか分からないということであり、無我ということは、自分の思うままに制御することはできないということであります。
そのような中でお互いは一日一日を生きてゆかねばならないのです。
であれば、そのことを謙虚さと諦観を持って受け入れてゆかねばならないということであります。
福岡先生は、この三月上旬にニューヨークに渡り、春休みを過ごして帰国する予定だったらしいのですが、現地で足止めされて、今も現地で過ごしているそうです。
まさに予測不能、制御不能な状態の中で仰る福岡先生ですので、今の状態を受け入れて謙虚に生きるしかないという言葉には説得力があります。
横田南嶺