神は多くの名前を持つ
甲斐和里子さんは、浄土真宗のお寺のお生まれでしたので、住職であるお父さまに質問されました。
「お念仏を申すとき、なんまんだぶ、なむあみだぶつのいずれをお称えしたらよいのか、またその声量などの注意点を教えてください」と。
お父さまは、「かあちゃんというてもおかあさんというても、聞く母親に取りては同じ愛児の声である」とお答えになったというのです。
たしかに、お念仏では、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」と称える方もいらっしゃいますし、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と念仏する方もいらっしゃるように思われます。
あるいは、大きな声がいいという方もいらっしゃれば、小声で申すのがよいという方もいらっしゃるでしょう。
それに対するお父さまの答えがすばらしい。
なんと呼ぼうが、どう呼ぼうが、母親の立場からすれば、どの声も皆かわいいわが子の声にほかならない、呼び方の違いや、声の大きさなどは関係ないというのです。
こういう本質を教えられたお父さまは偉大な方だったと思います。
更に、禅では、「一実多名」ということを申します。
なんまんだぶとなむあみだぶつとの違いどころではありません。
今北洪川老師は、その著『禅海一瀾』において、「天と曰い、仏と曰い、性と曰い、明徳と曰い、菩提と曰い、至誠と曰い、真如と曰う。一実多名なり」と仰せになっています。
天といおうが、仏といおうが、菩提といおうが、みな同じ一つのことを呼び名だけ変えたのだというのです。
なんと呼ぼうがみな本質は同じだということです。
洪川老師のお弟子の釈宗演老師は、このところを講義なされて、キリスト教の「ゴッド」もまた同じことなのだと解説されています。
洪川老師などは、儒教と仏教の一致は説きますが、キリスト教までは説かれていません。お弟子の宗演老師は、キリスト教のゴッドも同じだと説かれたのは、当時としては画期的だったと思います。
禅の修行を終えて更に慶應義塾に学び、シカゴの万国宗教会議にも出られた老師ならではのことでしょう。
岩波書店から出ている『図書』という冊子の六月号に、宗教哲学者の間瀬啓允先生が、「仏基の思想の稀有な一致ー釈宗演とジョン・ヒックの論述にまなぶ」と題して一文を載せられています。
一昨年の慶應義塾大学のおいての釈宗演展のことにも触れられています。
そして宗演老師の百年諱の記念に出版した『禅海一瀾講話』から、「一実多名」のところを引用してくださっています。
真理は一つ、名前の違いに過ぎないという教えであります。
さらに間瀬先生は、ジョン・ヒックという宗教哲学者の「神は多くの名前をもつ」という言葉を引用されて、「究極実在」が「多くの名前で呼ばれている」という論を紹介されていました。
なかなか実際には、諸宗教が一つになるということは困難なことが多いのですが、少なくとも通じるものがあるのだと見てゆきたいものであります。
仏さまの立場からみれば、われらは皆仏の子、その仏の子が、なんとお呼びしようが、みな受けとめてくださるはずです。
横田南嶺