深き闇
自死決意した子の深き闇知れず
という一句がありました。
考えさせられる一句であります。
川柳というと軽いものが多いように見えて、深いものがございます。
いつまでも無邪気な子どものように思っていたけれども、いつの間にか自死を考えるようにまでなっていたのでしょう。
人の心は、他人に推し量れるものではありません。
親子であろうと同じであります。どんなにいつも一緒にそばにいているつもりでも、その人の心は分からないものです。
禅では、人は皆生まれながらに仏心を持っていると説きます。
それはその通りなのですが、それと同時にどうしようもない深い闇を抱えているのも事実であります。
いやそもそも仏心というのは、そんな闇をも含めたものであると言えましょう。
五木寛之先生の『大河の一滴』に、とある作家さんの話が載っています。
五木先生の大先輩にあたる方で、五木先生は
「自分のような駆け出しの新人作家でも全く分け隔てなくざっくばらんにお話くださるかたで、なにかパーティーの席などにその方がいると、その周りに人垣ができて、明るい笑い声が起きて、その場だけがスポットライトがあたったみたいに明るく見えた」
と言います。
五木先生も、その作家のようにいつも明るく闊達で屈託がなく、若い作家たちからも親しまれ、みんなの人気者のように愛されて年を重ねてゆく、そんな風にいけたらいいなと思っていたそうです。
ところが、その方がお亡くなりになったあと、あるコラムでその作家の方が、そばにいる人に向かってふと漏らした言葉が書かれていたそうです。
それは「もしまたこのように生まれかわってくるようなことがあったとしても、もう金輪際人間になんぞ生まれ変わってきたくはない」
という意味の言葉だったのです。
それをご覧になって五木先生は、
「はなやかで明るくて軽快で、そして屈託のない」方だと見ていたけれども、それは半面しかみていなかった、
「二度と人間になんぞ生まれ変わってきたくないともらすほどの深刻な内面の葛藤や悩みを心に深く抱えておられたとは」
と反省されたと書かれています。
そこで
君看よ双眼の色
語らざるは憂い無きに似たり
という一句を紹介されています。
「あの人の眼を見てごらんなさい。いつも静かに微笑んで、つらいとか苦しいとか、こんな目にあったとか、大げさにいろいろ述べたりしない。だけど、そうであればあるほど、その人が心のなかに蓄えた憂いというもの、あるいは苦しみや悲しみというものは、こちらにも惻々として伝わってくるではありませんか」
と五木先生は解釈されています。
禅語にも
海の水を全部くみ上げることができたとしても、人の心の奥深くは見ることができない
という意味の句があります。
人間には、そういう深い闇を抱えて生きてるのだと、知ることができるだけでも、みなそうして生きているんだ、自分も生きてゆこうという気持ちになれるものであります。
仏心は闇をもつつむものであります。
横田南嶺