霧濃ゆくとも
近頃は、連載を頼まれて、二回目を載せていただいたところです。
その最近の『やすらぎ通信』を送っていただきました。
そこには、酒井大岳先生の文章がございました。
酒井先生は曹洞宗の僧侶でいらっしゃいますが、学生時代行商をなさりながら苦労された先生で、私も学生時代にお話を拝聴したことがあります。
それは松原泰道先生が、原宿の喫茶店で、辻説法をなさるという「南無の会」を始められた頃で、紀野一義先生や酒井大岳先生なども、その草創期の講師でした。
いかにも人情味あふれる、熱血の先生という印象が強く残っています。
その酒井先生が、生活費や学費を働き出すために毎日行商しながら暮らして、ほとんど大学には行けなかった頃の話を書いてくださっていました。
そんなある日、書店で高浜虚子の句集に出会ったそうです。
いきなり開いたページに
霧如何に濃ゆくとも嵐強くとも
という一句がありました。
酒井先生は、
「この俳句の重さほど重いものを、わたしはいまだに知りません」
と記されていました。
当時かなりの大金だったそうですが、酒井先生は意を決して買い求めれらそうです。
この句の左下に小さく「十月四日、我国燈台創設八十年記念の為、灯台守に贈る句を徴されて、剣崎灯台吟行……」とあったそうです。
灯台守の為の句であることがわかります。
今は機械化が進んで、灯台守が住んでいることはないそうですが、
かつては灯台守が灯台に住み込んで、どんな霧の時でも、嵐の時でも、
沖行く舟の為に灯台の灯をともし続けたのでした。
そんな灯台守の為の句なのです。
その句をご覧になって酒井先生は、
「運動靴を履いて物売りをしていたわたしに、これほど力強い励ましの言葉があったでしょうか。
わたしはこの句で手書きのしおりを作り、あらゆる書物のあいだにはさみ込み、ポケットに、財布の中に押し込みました。
そうして、物を売り歩いてゆくわたしの背中にこの句をぴたっと貼り付け、「頑張れ!」と遠くから励ましてやりました」
というのです。
酒井先生は、虚子の句で
一時はたとひ暑さにあへぐとも
という一句にも力をいただいたと書かれていました。
そして最後に
「どんなに霧が濃い日でも、嵐が強い日でも、「灯台守のように一日の怠りもなく励もう」と、毎日自分に言って聞かせながら、汗を流して働きました。」
と書かれていました。
その行商の頃を思いを忘れないようにと、酒井先生は常に運動靴を履かれていました。私が学生の頃講演を拝聴した時にも、運動靴でお見えになっていたことを思い出します。
その酒井先生も、今年の二月にお亡くなりになりました。
「霧如何に濃ゆくとも」には、今の世相を想起させられます。得体の知れないウイルスに悩まされ、どうなるか先の見えない今は、深い霧に覆われているようであります。
「嵐強くとも」とは、ウイルスによって、私たちの暮らしに大きな打撃が与えられています。まさに思いもしない嵐であります。
しかし、どんなに霧濃ゆくとも、嵐強くとも、希望の灯火をともし続けなければなりません。
そんな『やすらぎ通信』もまた今号で休刊になると決まったそうです。私の連載も始まって間もないのですが終わりました。
いかに今霧が濃いのかを暗示するかのようであります。
横田南嶺