「私」を慈しむ指導
「医療ルネッサンス マインドフルネス 少年院 「私」を慈しむ指導」
という記事があって目にとまりました。
とある女子少年院で、マインドフルネスの指導がなされているというのです。
「ただ、瞬間瞬間の手のひらに気づきを向けます」
「手から心が離れていたことに気づいたら、できるだけ早く戻りましょう」
という「手動瞑想」が、週に一回の授業に加え、毎日夕方二十分生徒が自分の部屋で瞑想するのが日課だというのです。
マインドフルネスが、会社や学校などいろんなところに取り入れられているのはよく知られています。
さて、この記事で注目したのは、マインドフルネスが少年院に適しているのは「セルフコンパッション」が養えるからだということです。
少年院に入る少年少女たちというのは、
「親など大人から十分な愛情を受けずに育った子が少なくない。
自分を愛せないから他人も愛せず、傷つけてしまう。
そこで、まずは自分を慈しみ、思いやることが重要になる」
と書かれていました。
マインドフルネスの指導でも
「手から心が離れるのは、全然悪いことじゃない。
そういう自分に、温かい気持ちで気づけばいい」
と声をかけるのだそうです。
それに対して、我々の禅の修行では、相手を否定することを徹底して行います。
とにかく「駄目だ、駄目だ、駄目だ」と否定し続けます。
恐らくこのような指導になったのは、禅の語録などを見ていると、
禅を求めた人たちというのは、相当の経典や仏教学を学び尽くして、
最後に禅を求めたという場合が多いように思えます。
そこで、その少々自信過剰になっているのを、
徹底的に否定し、学問や知識など蓄えたものを奪い尽くして、
本来の心、慈悲の心に目覚めさすという指導がなされていたのではないかと思います。
やはり、お釈迦様の教えは、「病に応じて薬を与える」ということが基本ですから、その人に応じて指導して、本来の心に目覚めさせるようにするべきでしょう。
どうかすると、その指導方法が絶対のもののように確立されてしまい、それが誰にでも通じると思い込んでしまうのではないかと危惧します。
指導する方は、様々な指導方法を学んでおくことが必要だと改めて思いました。
そういえば、川野泰周先生も、「自慈心」が大切だとお話になっていたのを思い出しました。
横田南嶺