一休さんもやりこめられる
知人からいただいた手紙で、一休さんにまつわる逸話を教えていただきました。
何でも高野山に伝わる話とか。
高野山の一院に雲水姿の一休さんが訪ねてきたそうです。
一休さんは、あろうことか、寺で大切にしている大般若経の箱の上に腰掛けていました。
高野山の阿闍梨がとがめると、
一休さんは「ワシが生きた大般若だ、般若経の上に般若経が乗っているだけ、気になさるな」と言いいました。
この辺まではいかにも一休さんらしい話です。
このあたりで泊まりたいという一休さんに、宿所を紹介しようとして案内している道すがら、
一休さんは、
「真言では印相というものを大事にしているようだが、あんなものは手遊びと変わるまい、子どもの遊びのようなもの、功徳などありはせぬ」
とうそぶきました。
さすがに腹を据えかねた阿闍梨は、宿を望まれるなら控えられよとたしなめますが、一休さんは、それなら結構と踵を返して戻ろうとしました。
しばらくすたすたと歩いてゆく一休さんに向かって、阿闍梨が、手をポポンと柏手を打ちました。一休さんは思わず振り返りました。
今度は阿闍梨が手招きしました。
その様子をみて一休さんは思わず歩み寄ってきました。
そこで阿闍梨は言いました。
「あなたはさきほど真言の印相など手遊び同然と言われ、功徳がないと笑われましたが、それならなぜ、私が手を拍っただけで振り返り、手招きすれば戻ってきたのですか。
凡夫の手の所作だけでもこのようなはたらきがあるのです。まして仏の伝えられた印相にどうして功徳がないことがあろうか」と。
これにはさすがの一休さんも一言も無かったという話でした。
印相というのは、真言宗などでは、手でさまざまな形の印を組むことを言います。
禅宗ではあまりそのようなことをしません。せいぜい合掌と、叉手とそれに坐禅の時の法界定印くらいです。
我々禅宗の書物だけ見ていると、一休さんはいつもやりこめる側にいらっしゃるのですが、こうして他の宗の立場からみれば逆にやりこめられているのが面白く思います。
もっとも後世の作り話でありましょうが、考えさせられます。
ついつい禅宗などは、小事にこだわらないのをよしとしてしまいがちですが、手のわずかな所作にも、人の心には大きな影響があります。
それが証拠に心をこめて手を合わすだけでも、心が落ち着きます。
坐禅の法界定印という印にしても、天地と一枚になる大きな意味があります。
わずかなこともおろそかにせず取り組まねばならないと思ったことでした。
横田南嶺