大悲
『鈴木大拙随聞記』という志村武先生の本に次のような話がありました。
大拙先生が志村先生に語られたというのです。
「昔、円覚寺の住職に誠拙という人がいたことがある。
この和尚がはじめて円覚寺にきたころは、
円覚寺は鎌倉近在の人びとのバクチの中心になっていたという。
このバクチ場化してしまっている寺を、
どうやってまともなものにするのかと人にたずねられたとき、
誠拙和尚は、
『わしもいっしょにバクチをしよう』
と答えたという。
こんなふうに仏教の『大慈、大悲』は、
地獄におちている人間を救うためには、
いっしょに地獄までおちていくのだ。
ところが、キリスト教では、
悪い者はどこまでも悪いとして正面から攻撃する。
血なまぐさい征服までやってのける。
『大慈、大悲』においては、分けへだてが行なわれない。
そこでは一切が「分かれて分かれない」のである。
つまり『不二』なのだ。
だから、地獄におちている人間を救うためには、いっしょに地獄までおちていってしまう」 『鈴木大拙随聞記』
昨年ちょうどこの誠拙禅師の二百年大遠諱で、さまざまな行事を行っていたのでした。
誠拙禅師は、お亡くなりになってから大正天皇より「大用国師」という諡号をいただいています。
円覚寺にお越しになったのはまだ二十七歳の頃、いかにも荒れ果てていた当時の円覚寺の様子がうかがえます。
はじめは、想像以上に荒れていたのに驚いて、こんなお寺を再興するのはとても無理とあきらめて、すぐに師匠の月船禅師のもとに帰りました。
月船禅師は、すぐに帰ってきた誠拙禅師にどうしたのかと尋ねました。
誠拙禅師は、円覚寺がいかに荒廃しているか、ひどいところであるか、再興などとても無理だと申し上げました。
すると月船禅師は、ひとこと「見損なったな」と。
誠拙禅師は、この一言で師匠の心を悟ったのでした。
師匠の月船禅師は、あなたなら、そんなお寺でもきっと再興できると信じていたのにという心でしょう。
いやあなたでないと出来はしないことだと思ったから託したのだという心でしょう。
そこで、すぐさま円覚寺に引き返したのでした。
後年その後の誠拙禅師の行動を、朝比奈宗源老師は次のように説かれています。
「それからの誠拙さんは、すすんでその堕落しきった坊さん達の仲間にとけこみ、
賭けごとなどをしている時でさえも席をはずさず、
煙草盆の火を入れてやったり茶をくんでやったりして和光同塵し、
徐々に一山の風規を改め、
三十年もの長い間に、伽藍の修理や再建、僧堂の創建、規矩の制定等々から、
その門下に優秀の人材を多数打出し、
開山仏光国師の再来と呼ばれ、
晩年には仏光国師の法孫の開いた京都の天龍、相国の二大寺に招聘されて、
それぞれに僧堂を創建したり、さらに南禅その他の諸寺に応請したりして、
ひろく天下に化を布かれた」
というのです。
円覚寺にとっては「中興」と称せられるお方であります。
大事を為すには、これくらいの慈悲の心が徹底していないといけないのでありましょう。
「我独り澄めり」と超然としていたのでは、事はならないのであります。
横田南嶺