渡し守となって
これによって四千六百あまりの寺が壊され、二十六万五百人の僧尼が還俗させられました。
当時の仏教界が壊滅的な打撃を蒙ったのでした。会昌四年西暦八四四年のことでした。
『大法輪』に連載してくださっている小川隆先生の「唐代禅僧たちの生涯22」は、今回この破仏に関して禅僧がどうしていたかを書いてくださっています。
はじめに潙山霊祐(八五三没)禅師のことを紹介されています。
潙山禅師は、還俗を求められると、事もなげに俗人の帽子と衣服を身に着け、「人々といささかも異なろうとしなかった」と書かれています。
会昌六年(八四六)武宗皇帝が亡くなって、破仏も収束を迎えます。
潙山禅師は、破仏が終わり復仏が認めれれるようになってから、湖南の節度使から隠遁生活から出て、髭と髪を剃るように勧められた。
しかし、潙山禅師は笑みを浮かべて「仏法はわたくしの髪や髭と関係があるとお考えか」と断ったといいます。
なおも懇請されて、また笑みを浮かべつつそれを受け入れたと書かれていました。
小川先生は、「これが大いなる禅者の大いなる迫害への看方であった。彼らには、破仏に悩まされた様子がさして見えないのである」
と書いて下さっていました。
困難な事はいつの時代にもあるものです。
しかし、それに対応しても困って取り乱したりしないのでしょう。
ほかにも巌頭禅師は、ボロボロのシャツに草で編んだ帽子という姿で尼寺を訪ね、ちょうど昼時だったので、ずかずかと台所に入って
勝手に飯をよそって食べていた話なども出ていました。
尼さんに見つかっても問答をしていたのでした。
なんと巌頭禅師、問答で尼さんをやりこめて逆に追い出してしまうのでした。
この巌頭禅師は、破仏の間は湖で一介の渡し守となっていたと言われます。
湖の両岸にそれぞれ一枚の板を具え、渡りたい者はそれをコーンと打つのです。
すると巌頭禅師は舟の櫂を持ち上げて、「誰だ」と問います。
「あちらへわたりたいのです」と言われるとそのまま舟をこいでゆくのでした。
黙って舟をこいで向こう岸に渡す姿には、人々を迷いの岸から悟りの岸へと導きたいとの願いがあるようにも思われます。
それにしても禅僧は、どんな状況下にあっても、風の吹くままに逆らわずに泰然としていた様子がよくうかがわれます。
参考にしたいものであります。
横田南嶺