意識や記憶よりも
黒住教の教えは、森信三先生なども高く評価されていたと言いますし、私自身もすばらしい教えだと思って勉強させていただいています。
異なる宗教の教えを学ぶと、自分の学ぶ教えがより一層深まることがあります。
毎月巻頭には、教主の黒住宗道師がお書きになっています。
その中に、黒住宗道師とダライ・ラマ猊下との会話が紹介されていました。
ダライ・ラマ猊下が来日された折りに、当時副教主であった黒住宗道師が質問されたそうです。
「輪廻転生を信じる宗教の長たる法王の気さくなお人柄に甘えて」尋ねられたのです。
それは「前世のことを何か覚えていらっしゃいますか?」という質問でした。
なかなか直接伺うというのは勇気のあることです。
お二人が親密な間柄だからでしょう。
チベット仏教では、輪廻転生は当たり前のことのように信じられています。
ダライ・ラマという法王は、転生するのだと今も信じられているのです。
そんな質問に対して、ダライ・ラマ猊下は黒住師に
「昨日の朝起きた時から寝るまでの全ての出来事を細かく間違いなく思い出せますか?」と問い返されました。
黒住師は「細かく間違いなくは、とても無理」と答えますと、
ダライ・ラマ猊下は「ほんの昨日のことでも覚えていないのに、生まれる前のことを覚えていると思う?」と、
微笑んで「意識して覚えていないことを、私たちは確かに受け継いでいます。大切なことは、よき来世のために、この現世をしっかりと生きることです」と優しく教えられたという話でした。
いい話だなと思いました。
ダライ・ラマ猊下の気さくなお人柄がしのばれます。
そうなのです。私たちが意識している、覚えていることなどは、ほんの一部分でしかないのです。しかもそれらは実に不確かなものなのです。
それなのにお互いは、意識していること、記憶しいていることが全てのように思っています。
それよりも、もっと大いなるものに抱かれて生まれてきて、こうして生きているのです。
意識も記憶も及ばないから、「不思議」というのです。
生まれたことも不思議、生きていることも不思議なのです。
そんなことは理解できないと思われるかもしれません。理解できないのは当然なのです。意識や記憶が及ばないのですから。
しかし、そんな「不思議」の世界があると感じることはできます。
それは一輪の花が咲いている姿にも、今の私の一呼吸の様子にも感じることができます。
そして、その大いなる「不思議」の世界に身を委ねたときに、安らぎが生まれます。
横田南嶺