しばしば空し
『論語』の中に、
「子曰く、回や其れ庶(ちか)きか。屢〻(しばしば)空し。賜(し)は命を受けずして貨殖(かしょく)す。億(おもんぱか)れば則ち屢〻中(あた)る」
という一節があります。
岩波文庫の金谷治先生の訳によると、
「顔回はまあ理想に近いね。道を楽しんで富を求めないからよく貧乏する。賜(子貢)は、官命を受けなくても自分で金もうけをして、予想したことはよく当たる」
となっています。
表面的には、顔回は富などを求めようとしなかったので、よく貧乏をしていたということですが、今北洪川老師は『禅海一瀾』にこの言葉を取り上げて、「空し」ということを更に一層深く読み込まれています。
洪川老師の解釈がどのようなものなのかを、更に釈宗演老師は
「この「空」ということは「有る」ということに対する「無い」というような、そういう低いものではない。もう少し言葉を換えて云うならば、「仏」というものも「空」、「仏法」というものも「空」しい、「悟り」ということも、「迷い」ということも、「世間」ということも、そんなことはスッキリ跡方が絶えて無くなって仕舞うたる、その境界を言おうとして居るのであります」
と説明されています。
そして、宗演老師はギリシャの哲学者ディオゲネスの逸話を取り上げています。
アレキサンダー大王が、ディオゲネスに「是非とも一遍会いたい」と言われました。
側近たちが「会いたければ御自身で御越しにならなければなりません」と言うので、大王が自ら足を運んでディオゲネスの処に行きました。
するとディオゲネスは、酒樽の中に生活をしていました。
酒樽を酒屋から貰って来て、それを家として生活していたのです。
時の学者たちが、あちらからもこちらからも、皆な酒樽の中に生活しているディオゲネスの処に教えを乞いに行っていたのです。
大王もそこに来て大いに驚きました。
世界に有名な大哲学者が、こういう貧しい生活をしているとは思いもしなかったのでした。
そこで大王は、もしあなたが私に何か求めるものがあれば、何でもきいてやろうと告げました。
しかしディオゲネスの眼中には、別にアレキサンダー大王もありません。
ディオゲネスは大王に、「別段あなたに求めるものは何もありませぬが、強いて何でもかなえてやると言われるなら、どうぞそこを退いて下さい」と言いました。
その時は寒い季節で、ディオゲネスは日向ぼっこをしていたのです。
そこに大王が家来を大勢連れて来て、眼の前に立ったから、日陰になってしまったのです。
そこで、「そこをどいてください」と言ったのでした。
何とも痛快な話であります。
この話を宗演老師は持ち出して、「ディオゲネスのその精神は実に洒々落々たるもので、その胸中には何物もない。まして況や富貴とか功名とか、そんなものは何にもない」
と表しています。
漢文の語録の講義に、ディオゲネスまで出てくるところが、宗演老師の幅広さであると思います。
この何もない心を、洪川老師は「至誠」、「至仁」、「至道」であると仰せになっています。
無一物と言いますが、何も持たぬものの豊かさであります。
何も持たぬものほど強いものはありません。どこまでも誠を貫けるのです。真実の道にかなうのです。
何もないところが、実は充実したものでもあります。
坐禅は、カラッポになる修行なのです。
横田南嶺